2017.11.21

今日のみ言葉【No.1653】(2017年11月21日)「 神の意志と目的」

わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。
(ヨハネ6:40)

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北朝鮮の拉致被害者横田めぐみさんのお父さんの滋さんが、今月4日に受洗されました。

奥様の早紀江さんはすでに受洗され、ご自分の信仰を公にしておられますが、滋さんはまだでした。

洗礼を授けた牧師はこう語っています。

「私の臆測の範囲ですが、滋さんは今まで苦悩の中、『神様を信じられない』と思っておられたのが、40年という月日がたち、年齢を重ねていくうちに、最後の望みをかけて、神様に頼る選択をされたのではないでしょうか」
(http://www.christiantoday.co.jp/articles/24748/20171109/yokota-shigeru-baptized.htm)

我が子を思うご両親の気持ちが痛いほど伝わってきます。

「天にいますわれらの父」と啓示された神は、横田さんと同じく、私たち人間の帰郷を待っておられます。

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イエス・キリストがこの地上に来られたことにより、父なる神が私たち人間に対して持つ意志と目的が明らかにされました。

今日の聖句がそれを表しています。

「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである」
(ヨハネ6:40)

一度エデンの園から離れてしまった人間が、もう一度神の御腕の中に戻ること。

これが神の最大の望みであり、イエス・キリストがこの世に来られた理由でもありました。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」
(ヨハネ3:16)

このことは、じっとしているだけではわかりません。

立って行動を起こし、待っておられる神の御腕があるはず…、と信じて現実の中に飛び込むのです。

そこに、「ああ、やはり神はおられた」と体験する世界があるのです。

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S兄は争いの絶えない家庭に育ち、心痛めた彼は

「僕は結婚はしない。一人で生きるのが一番幸せなのだ」

と考えて大人となりました。

会社の同僚の誘いで教会の英会話教室に行った時、アメリカ人の先生がどうしてあんな風に暖かく迎えてくれるのかに驚きました。

自分の国で何不自由無い生活ができるのに、何を間違ってこんな雪深くて寒い田舎の米沢にまで来たのか…。

しかし彼の凍っていた心は先生方の暖かい心にふれて溶け出し、

「あの人たちのように生きてみたい」

という思いが湧いてきました。

彼は正直に、「洗礼を受けた時は、十字架もイエス・キリストもあまりよくわかっていませんでした」と謙遜を込めて語ってくれます。

しかしその決断を神様は祝福して下さいました。

ご自分のみもとに来る者は誰でも神は喜んで暖かく受け入れて下さるのです。

S兄はその後も順調に教会生活を続け、毎週の礼拝を守り…、となればテレビドラマの主人公になれます。

実際はそうではないのです。

教会に行けない日が続いたり、信仰の友から離れたりする日々もありました。

しかしそのたびに励まし、寄り添ってくれる教会の人々のふれあいが彼を生かしました。

その後、彼は良き伴侶との出会いが与えられ、子供の時に思い描いた家庭とは全く違ったクリスチャンホームの恵みの中で生かされています。

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神はご自分に来る者を歓迎してくださいます。

両手を広げてあなたを待つ神をイメージしながら、今日の一日に飛び込んで参りましょう。

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2017.11.20

今日のみ言葉【No.1652】(2017年11月20日)「 みこころが天に行われるとおり」

だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
(マタイ6:9-10)

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イエス・キリストは私たちの人生に関わる大事なことで、今まで隠されていたものを明らかになさいました。

そのいくつかが有名な「主の祈り」の中に表されています。

まず、神は「天にいますわれらの父」だという啓示です。

神はどこか遠いところにいるかけ離れた存在ではなく、私たちと密接な関係がある「父なる神」だとイエス様は知らせて下さいました。

これは旧約聖書で示された恐れ多い神のイメージとは全く違った神の姿です。

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これだけでも驚くべきことなのに、イエス様はもっと驚くようなことを大っぴらにおっしゃいました。

それは、この世で神の御心がなされていない、ということです。

「みこころが天に行われるとおり」と言っておられますから、天において父なる神の御心は完全になされています。

しかし、その次に「地にも行われますように」という祈りをしなさいという勧めがなされています。

つまり、地上において御心は不完全な状態なままだというわけです。

だから祈れとおっしゃっているのです。

イエス様は聖書の他の箇所で、この世において神の意志が全うされておらず、理不尽な状況がまかり通ることに耐えなければならないことを語っておられます。

「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか」
(ルカ9:41)

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私はこの箇所を読むとホッとします。

なぜなら、

「祈りが聞かれない」

「聖書の言葉通りにならない」

「悪いことを要領よくやって得をする人たちに利用される」

ということを毎日のように体験しますが、それは神様から見放されているからではなく、イエス様時代からある当たり前のことなのだとわかるからです。

この世の一部では御心がその通りなされ、一部ではなされていません。

その不完全な状態の中にある「この世」というものをそっくりそのまま受け入れ、そして、

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」
(マタイ6:10)

と祈り続け、神の国の支配がこの地上に及んでいくように、少しでも多くの人の心に神の愛と救いを届けることがこの時代を生きる目的なのです。

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このことを基盤に、私がスクールカウンセラーとして心がけていることは、安易に答を教えないことです。

実は話をじっくり聞いているうちに、「こうすれば直る」という解答は案外簡単に出てくるものなのです。

たとえば高校生に向かう時、

「もっと自己主張すればいい」

とか

「いじめの事例は多いのだから、担任の先生に相談してみたら?」

等々、今すぐやれば効果歴然という答が頭に浮かびます。

しかしこのような答は全くと言っていいほど役に立ちません。

生徒さんたちがやろうとしても出来なかったことを再び強制していることになるからです。

事態を切り開くのは、不完全なものをそのまま受け入れ、

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」

という思いを込めた次の質問です。

「そんな大変な状況の中を、あなたはどう切り抜けているの?」

現在の状況に模範解答を無理やり当てはめようとせず、その中に神の光を見出そうとする手法です。

すると、

「寝る」

「ガンガン音楽を聴く」

「親は存在しないものと思い込む」

「スルーする」

と、彼らなりの対処法を話してくれます。

そこで、

「あなたは今回、そういう方法で自分を守る術を身につけたんだ。それはスゴイ事だよ」

と承認して差し上げるのです。

今まで自分のやり方を

「そのままではダメだ」

と批判されて、

「こうやりなさい」

と直そうとされるばかりの状況の中、

「あなたのそのままでよい。それは素晴らしいことだった」

と受け入れられ、そこで意識の中に光が与えられて今まで見えなかったものが見えるようになるのです。

人は

「ああ、私これでもいいんだ」

と思えた瞬間に問題から逃げることをやめます。

問題を直視する勇気が湧くのはそれからです。

神の支配はそうやって及んでいくのです。

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地に御心がなされるように祈る今日として参りましょう。

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2017.11.18

今日のみ言葉【No.1651】(2017年11月18日)「 人をかたよりみないかた」

そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。
(使徒10:34-35)

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映画「ハクソー・リッジ」は、銃を持たない衛生兵として信仰を貫いたデズモンド・ドスの実話です。

デズモンド役のアンドリュー・ガーフィールドは、映画「沈黙 -サイレンス-」でロドリゴ神父役を演じ、彼の父親役は「マトリックス」のエージェント・スミスを演じた俳優さんです。

さて、「ハクソー・リッジ(Hacksaw Ridge)」とは、弓のこぎりのように急な崖となっている前田高地(現沖縄県浦添市)にアメリカ兵がつけた呼称です。

彼は上官や仲間たちから臆病者とされ、偏見の目で見られますが、激戦の中、我が身を顧みずに多くの負傷兵を助けたことから、戦後、トルーマン大統領より勲章を授与されています。

人間が持つ先入観や偏見は根深いのです。

イエス・キリストが最も驚かれたのは、その当時の分離の思想でした。

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分離は初期の段階では必要です。

まだヨチヨチ歩きの創世記の時代、そしてヨシュア記あたりまでは、周囲の民族からの異なった価値観の影響を避けるために分離は必然でした。

ところで、アブラハムに示された神の基本的御心は祝福が全世界に広まることです。

「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」
(創世記12:3 新改訳)

預言者イザヤの時代には世界宣教の幻が見られ、いよいよ分離の時代を終えてイスラエルが他国に影響を及ぼす時代が来ることが伺えます。

「わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」
(イザヤ49:6)

しかし、神に背いた結果味わったバビロン捕囚の反動で、イスラエルの民は極端な律法主義に陥りました。

ユダヤ人と異邦人の間に徹底的な分け隔てをし、自分たちの信仰を守ることが宗教的だと確信していたのです。

この思い込みをひっくり返し、正しく神の御心を理解するのには、弟子たちでも長い時間がかかりました。

アブラハムに約束された祝福はユダヤ人にも異邦人にも平等に及び、何の差別もないという当たり前のことを納得するまでに、弟子のペテロでさえ

「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」
(使徒10:15)

という夢の中での幻を3度見なければなりませんでした。

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ペテロが神の御心を悟り、

「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました」
(使徒10:34-35)

と言えるようになるまで、神は彼にチャレンジし続けました。

その関わりは私たちに対しても同じです。

なぜなら「神は人をかたよりみないかた」だからです。

どんなに見込みがなさそうでも、どんなに理解力が乏しくても、また、現在、神に反対する者であったとしても、神は私たちに御心を伝えようとチャレンジし続けられるのです。

「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」
(ローマ5:10)

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M子さんのお母さんにガンが発見され、医師から末期だと診断されました。

お母さんを失う恐れでM子さんは震え、「母を助けて下さい。癒して下さい」と祈るしかできませんでした。

礼拝でのメッセージにすがるような思いで聞いていると

「試練は神様からのプレゼント」

「神は最善しかなさらない」

という言葉に対して慰めを感じるどころか、

「冗談じゃない!!」

と怒りすら湧いてくる状態だったそうです。

育児、家事、仕事に母の介護が加わり、クタクタに疲れ、毎日涙でぐしょぐしょになりながら祈る日々が続きました。

そんな中、M子さんは神様が自分の心にこう語っておられるのだと感じました。

「あなたの母は今生きています。あなたと共に時間を過ごすことができるではないか。なぜ、まだ失ってもいない母を失ったかのように嘆いてばかりいるのか」

共に生かされているこの今を感謝できるようになった時、彼女は辛い現実を受け入れられるようになりました。

すると彼女の祈りは、「母を助けて下さい」から「母に霊の救いと平安を与えて下さい」に変わりました。

M子さんはお母さんから愛される一方の人生でしたが、その時からお母さんを愛する側へと明確に変化したのです。

彼女は牧師から語られた「試練は神様からのプレゼント」「神は最善しかなさらない」というメッセージに、「アーメン」と応えられるようになりました。

神の恵みの働きかけに、M子さんは見事に応じられたのです。

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私たちの心の思いを変えられる神の働きにお任せする今日として参りましょう。

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2017.11.17

今日のみ言葉【No.1650】(2017年11月17日)「 少し休んでみることから…」

安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
(マルコ2:27)

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「テレビを見るとバカになる」とは極論ですが、視聴者受けを狙って善と悪を際立たせるように作っている番組を多く見かけます。

有名人に対する報道でも、昨日まで正義の味方扱いだったのが今日は極悪人というレッテル貼りをするという風で、中間色のコメンテーターはほとんど使われていません。

これに慣れてしまうと、考え方が「白か黒か、善か悪か」の二元論になります。

心療内科のお医者さんは、

「それだと鬱になりやすいですよ。0か100かの二者択一しかない思考法だと、たとえ99点取っても満点に届かないので0点に等しくなるからです」

とアドバイスしてくれます。

私たちは楽な方に流されないように警戒する必要があるようです。

イエス様が到来した時代も同様で、ただ律法さえ守ればいいという曲解された律法主義がはびこっていました。

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今日の聖句の

「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」
(マルコ2:27)

をグッと身近に引き寄せて理解するためには、現代用語に入れ替えて読んでみる方法が有効です。

たとえばあなたが会社にお勤めなら、

「有給休暇は社員のためにあるもので、社員が有給休暇のためにあるのではない」

「予算は人のためにあるもので、人が予算のためにあるのではない」

というのはどうでしょうか?

あなたが子育て中の親なら、

「学校は子供のためにあるもので、子供が学校のためにあるのではない」

と言われると、何か新しい発想が与えられるような気がします。

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イエス様が来られた新約聖書の時代、本来は祝福の基となるために与えられた律法が、逆に人を縛るものとなっていました。

安息日は7日に1回、労働を休止して神を仰ぐ日として生きるように定められました。

それは人間に自分が造られた意味と人生の目標を再確認させ、新たな力を得て人々の祝福のために次の6日間働くための日でした。

しかし当時の実態は、祝福はそっちのけで、人々はただ安息日を守ることに汲々とし、常に律法に違反していないかと恐れを持って生きていたのでした。

イエス・キリストはこの現実の姿を神の御心に合わせて正そうとされました。

イエス様が責める人々は、このように神が要求していない重荷を負わせようとする律法学者やパリサイ人たちです。

決して負い切れない重荷を負えずに苦しんでいる人たちではありません。

むしろそのような人は重荷を置いて休まなければならないのです。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」
(マタイ11:28)

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重荷を下ろすことにためらいを感じる人は、先ほど紹介した「0か100か、全か無か思考」のパターンに陥っているのかもしれません。

最初から全部下ろせなければ、幾分かでもいいからイエス様にお任せしようとすることです。

誰かに任せるとうまくやってもらえないケースがありますから、「そうなるくらいなら全部自分が引き受ける…」という人生の経験をすることがあります。

ですから、まずチョッピリ、失っても安全な部分から、お試しとして…。

そして具合を見てゆだねる領域を徐々に拡大していけばよいのです。

そこで得られる平安が確かなものであると確信できれば、やがて全てをお任せできる日がやってくることでしょう。

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あなたのために命を捨てたイエス・キリストと共に味わう祝福を、少しずつ、一つずつ味わってみようとする今日として参りましょう。

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2017.11.16

今日のみ言葉【No.1649】(2017年11月16日)「 わたしの戒めを心にとめよ」

わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
(箴言3:1-2)

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時代の進行によって違った意味で使われるものがあります。

たとえば「とても」という語。

一説によれば「到底もう」が短縮されて「とても」となったので、否定的表現を後に続けるのが本来の使い方なのだそうです。

ですから「とても無理だ」が適切な使い方で、「とても良い」は言い間違いとされていました。

しかし今は否定も肯定も関係なく使われます。

イエス・キリストが到来した時代は、神が与えた大切な「律法」が間違った使われ方をしていた時代でした。

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モーセの十戒に代表される神の律法は、本来聖なる良きものです。

新約聖書でパウロはそのことをこう語っています。

「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」
(ローマ7:12)

律法を守ることは私たちの益になるのです。

「わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える」
(箴言3:1-2)

祝福となる運命を果たすために制定された律法ですから、それは目的のための一つの手段です。

しかし年月が経つにつれ、律法を守ること自体が目的となり、イエス様時代には律法学者が追加した諸々の規則が山と積まれ、本来の精神が失われていました。

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イエス・キリストは愛と感傷を混同するような方ではありませんから、この事態を「よしよし」となでて終わるようなことをしませんでした。

律法学者やパリサイ人という当時の宗教的指導者を激しく非難し、対決しました。

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている」
(マタイ23:25)

清濁併せ呑むのが聖書の愛ではありません。

良いものは良い、悪いものは悪いときっちり区別をつけ、その上で罪の代償を支払い、うやむやにしない。

それがキリストの愛であり、罪の代償を払う苦しみをご自分が十字架の上で引き受けられたのです。

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キリストの愛と厳しさに思いを馳せる今日として参りましょう。

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