Home > 8月, 2011

2011.08.27

今日のみ言葉(2011年8月27日)【No.157】

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、
顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。し
かしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

(第1コリント13:12)

——————

いくつもの病を持ち、何十年も病床にある岡井久子さんの詩集「ヨブの涙」の中に、
こんな一節があります。

——-

神様が私を創ったときに

神様はしまったと言われた

——-

詩の最後に、そうではなかった、と書かれてあります。

神の失敗作としか思えない病床の自分。

しかし、岡井さんは神の隠された宝に気づいたというのです。

神の愛にふれた時に、それははっきりと示されます。

-*-*-*-*-*-*-

「神様からのげんこつ」

  岡井久子

息苦しい
口の中が生ぐさい
吐き気がする

一ヶ月程発作はなく
すごく気分よくすごしていたのに

ああ
私の負わされている
十字架の重さ

快調であったために
ふとわすれかけていた
十字架の重さ

その重さを思い出させるように
神様が下さった発作という

げんこつの痛さ
この痛み故に知った
キリストの愛

息苦しい
吐き気の中で
御名を呼びもとめていた

神様のげんこつって痛いな
聖旨をさとらず
自己本位にくらす
まるでなにもかも自分でいきているような

こうまんちきな私の頭に
一発くらったげんこつ

神様のげんこつって痛いな
でも一発くらった時

己の不信な行動に気づき
前よりなお強く聖名を呼び求める時

心は平安になり
神様のげんこつは恵みとなる

-*-*-*-*-*-*-

今私たちが知るところは一部分です。全てを知っておられる神を信頼し、その手に導かれ
て歩んで参りましょう。

2011.08.26

今日のみ言葉(2011年8月26日)【No.156】

「われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいからです。」
(詩篇108:12)

——————

人の助けはむなしい、とは、「人なんかあてになるもんですか!」という虚無的な考えで
はありません。

どんなに助けようという思いがあっても、人間の力には限界があるのです。

また、自立の力がある人に先に援助を与えてしまうと、返って災いになることがあります。

神に助けを求め、自立して生きることが神の御心です。

-*-*-*-*-*-*-

信仰の自立とは、「疑わないように」「強く信じ抜く」ということばかりではありません。

しばしばそのような思いには我力の強さが混じっています。

我力で信仰を動かそうとすると、自分の努力を認めてもらいたくなるものです。

抑えようと思ってもダメです。どこかで表面に出てきます。

特に、自分の生き方とは逆の人、つまり、

「疑ってばかりで気持ちも信仰もフラフラと定まらない人」

「信じます、と言ったその直後に、やっぱりダメだ〜、と弱音を吐く人」

を見ると、怒りが湧くのです。

思わず、

「私だってねー、そういう気持ちと戦っているのですよ。でも、そんなことじゃダメなん
ですよ。」

「私も頑張っているのですから、あなたも少しは努力する気持ちを見せて下さい。」

と、相手を包むどころか、結局こちらの言うことを聞け、というふうに、無意識に受容さ
せてしまうのです。

-*-*-*-*-*-*-

自立した信仰者は、神に自分の無力さを告げ、自分がどのように力が無いのかをサラリと
告げています。

「できないなあ」
「手が及ばないなあ」

と感じる時がチャンスです。

その思いは、神が私たちの心のドアをノックしている音です。

「今祈れ」

と神は語っておられるのです。

そして、

「あなたに話すことを用意しているよ」

と神は備えておられるのです。

-*-*-*-*-*-*-

神はあなたにお話ししようとしておられます。自分の無力さを素直に祈りましょう。

そして、心の耳を澄ませて、神の声を聞いて参りましょう。

2011.08.25

今日のみ言葉(2011年8月25日)【No.155】

「それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたち
の受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」
(第2コリント1:5)

——————

苦難あるところ、慰めもまたあります。

苦しみが続くのは、神がいないから、あるいは、神が私を見捨てたからだ、と思
いたくなるものです。

いくら祈っても苦痛は取り去られません。しかし、慰めは与えられ続けます。

私たちはフラフラになりながらも、慰めによって息を吹き返し、また試練に立ち
向かっていく…。

これが現実のありのままの姿なのではないでしょうか。

-*-*-*-*-*-*-

この苦しみはキリストも味わわれました。

あなたが一刻も早く解放されたいというその痛み、苦しみ、重苦しい不安、常に
頭の一隅を占有している思い煩い…。

イエス・キリストはその苦しみ全てを体験され、私たちの思いを理解しておられ
ます。

ですから、私たちのそばに来て、目には見えないその両手で私たちの手を握り、

「恐いよね、心配だよね。」

と慰めて下さるのです。

そして、それだけで人間は十分なのです。

-*-*-*-*-*-*-

作家の遠藤周作氏の本の中に、こんなお話があります。

遠藤氏が入院中、夜、獣の吠えるような声が聞こえてきました。翌朝、看護師さ
んに聞くと、個人情報保護法が施行されるずっと以前の時代でしたので、

「末期のガン患者さんです。当人は医師で、もう痛みにモルヒネも効かない状態
なので仕方ないんです。」

という答えが返ってきました。

「じゃあ、そういう時、どうするのか」

と尋ねると、

「その手を握ってあげます。そうすると、少しずつ静かになっていくのです。」

この答えに、遠藤氏は「そんな馬鹿な。ありっこない。」と思います。

しかしこの後、彼が手術後の痛みの夜を迎え、麻酔薬もこれ以上打てない状態の
時、看護師さんが手をじっと握ってベッドの横に座って下さいました。

すると、痛みが少しずつ鎮まってきたのです。

「ひとりではない」、「私のことをわかってくれる人がいる」

この慰めが人の心を癒し、力づけるのです。

その慰めは、私たちがキリストの苦難を共に味わう時に、キリストから与えられ、
そして今度は私たちが誰かの慰め手となっていくのです。

-*-*-*-*-*-*-

苦難と共に与えられる神の慰めを味わっていきましょう。

2011.08.24

今日のみ言葉(2011年8月24日)【No.154】

「今、光は見えないがそれは雲のかなたで輝いている。」
(新共同訳 ヨブ記37:21)

——————

飛行機に乗った人はわかります。

地上は厚い雲で覆われていても、雲の上は晴天。いつも青空です。

太陽は常に輝き、光と熱を送っています。

見えなくなったからと言って太陽が無くなったわけではないのです。

-*-*-*-*-*-*-

今、光などどこにも見えないという生活をしている方々がいらっしゃるでしょう。

しかし、今日の聖句は語るのです。

「今、光は見えないがそれは雲のかなたで輝いている。」

光を自分から拒まないように、心のカーテンは開けておきましょう。

必ず雲の切れ間から光が差す時が訪れるのです。

-*-*-*-*-*-*-

神様はあなたを光で照らし出す時を待っておられます。光を信じて待つ一日を過ごして参
りましょう。

-*-*-*-*-*-*-

今日のみ言葉メールは「配信停止希望」と書いて返信していただければ、いつでも停止い
たします。停止希望の方は遠慮無くご連絡下さい。

2011.08.23

今日のみ言葉(2011年8月23日)【No.153】

「そして言は肉体となり、…、めぐみとまこととに満ちていた。」
(ヨハネ1:14)

——————

イエス・キリストは「めぐみ」と「まこと」という両方の資質を持っておられました。

通常こういう人はおられません。必ずどちらかに片寄ります。

なぜなら、恵みを与えることと真実を語ることとは相容れないものだからです。

むしろそれはその人の持ち味であり、リーダーが集団を導いていく時の手法となって現れ
るのです。

-*-*-*-*-*-*-

恵みを与えるリーダーとして真っ先に頭に浮かぶのは、なでしこジャパン佐々木則夫監督
のあの笑顔です。

厳しい管理者と言うよりも、友人・応援団というイメージ。

選手の話を聞き、やさしい言葉で提案するプロセス重視の方のように見えます。

真実を語るリーダーの典型は、プロ野球中日ドラゴンズの落合博満監督です。

現役時代三度の三冠王に輝く実績を裏付けにした野球理論で、選手たちを有無を言わせず
引っ張ります。

上司として指示し、結果重視の冷徹な言葉はしばしばスポーツ新聞の紙面に取り上げられ
ます。

-*-*-*-*-*-*-

イエス・キリストはこの両方を兼ね備えた方だ、というのが今日の聖句が語るところです。

すなわち、「めぐみの人」として、あなたの人生の折々に、励ましを与え、力づけて下さ
るのです。

と同時に、「まことの人」として真実を語って下さいます。あなたの客観的な現実を知る
ことができるようにして下さるのです。

-*-*-*-*-*-*-

イエス様は恵みを必要とする人には恵みの対応をなさいます。

その人に対して、じっとお聞きになります。

また、よくお尋ねになります。

「なおりたいのか?」、「私にそれができると信じるか?」

真実を必要とする人には真実の対応をなさいます。

真実や真理を学ぶことができるように手配なさるのです。

それは人と人との現場を見せられる、ということです。実例を目の当たりにさせられ、
「ああするとこうなるんだ」と学ばされるのです。

そして、しばらくの後、同じ状況に自分が立たされていることに気づきます。実地で体験
して学ぶ機会が与えられるのです。

-*-*-*-*-*-*-

イエス・キリストは、めぐみとまこととに満ちておられるお方です。

この方の導きに従っていく一日として参りましょう。

Next »