Home > 9月, 2012

2012.09.29

今日のみ言葉【No.411】(2012年 9月29日)

老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、
(テトス2:2)

——————

テトスへの手紙は短い手紙ですが、その中で、

「慎み深く」

という語は4回も使われていて、慎み深くあることが強調されています。

日本的な感覚では、慎み深いとは引っ込み思案で内気な感じがしますが、聖書では違います。

-*-*-*-*-*-*-

まず、

「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。」
(ローマ13:13)

とあるように、肉の働きの方向に進まないこと。

そして、

「昼歩くように」

とありますから、現実は真っ暗闇でも、イエス・キリストという義の太陽が既に登り、昼の明るい光の中を歩くかのようにこの世を生きるということです。

すなわち、慎み深く生きるとは、たとえ現状はそう見えなくても、

「神の愛が今この私に注がれている」

と受け止めて生きることです。

-*-*-*-*-*-*-

ある時、隣りに座っていたOさんが祈祷会のメッセージの最中にもかかわらず、突然立ち上がり、会堂から出て行きました。

携帯電話がない時代でしたから、携帯の着信を感じて外に出たのではありません。

「メッセージで気に障ったことでもあったのかな?」

と、一瞬不安になりましたが、間もなく戻ってこられました。

後で聞くと、廊下の公衆電話で奥さんに謝ってきた、ということでした。

実は教会に来る前に、夫婦げんかをして、そのままムシャクシャした気持ちで祈祷会の席に座ったのでした。

しかし、メッセージを聞いているうちに、自分が神様にいかに愛されているかが分かってきました。

そして、

「悪いのは妻だ」

と意地を張り、怒りをため込んでいる自分でも、変わらずに神様は愛して下さっていることに気づきました。

そうしたら、Oさんは居たたまれなくなってしまったのです。

「こんな気持ちで神様の前にいてはいけない」

「妻に謝ってすっきりした姿で神の言葉を聞かねば」

という思いが湧いてきて、

「悔い改めるのは今しかない。そうだ、今すぐ電話しよう。」

と思い、行動に移したのだそうです。

もちろん奥様は許して下さいました。

はた目には大胆な行動のように見えましたが、神様に愛されていると受け止めて生きる「慎み深い」行動、と神様の目には映ったことでしょう。

-*-*-*-*-*-*-

神様から愛されているという思いをいっぱいにいただき、今日一日を歩んで参りましょう。

2012.09.28

今日のみ言葉【No.410】(2012年 9月28日)

また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、
(テトス1:1)

——————

「鰯(いわし)の頭も信心から」という言葉があります。

昔、鰯は大量に捕れたので最下等の魚。ましてその頭の骨など、価値のないものの代表でした。

そんなものでも信仰の対象になれば素晴らしいものになってしまう、という、言わば、盲目的信仰心を皮肉った言葉です。

-*-*-*-*-*-*-

キリスト教の信仰もそのようなものでしょうか?

「信心にかなう真理」とは、実際の生活の中で信仰が生かされ、その信心は本当に価値のあるものだ、と明らかにされることです。

本来あるべき姿と自分の罪の性質とのギャップに悩む人間が、その解決を求め、ついに得られた救いがキリストの十字架による救いです。

決して一時的な感情や勢いで信仰を持ったのではありません。

その救いが生活の中で根づくように、そして聖霊の実を結んでいくように、聖書を通して真理を学び、生きていくことが

「信心にかなう真理の知識」

を得て生きる生活です。

-*-*-*-*-*-*-

現代看護の基礎を作ったナイチンゲールは、クリミア戦争中、敵の兵士をも看護したことで、「クリミアの天使」と呼ばれました。

しかし、当のナイチンゲールは自分を神格化する動きを嫌ったそうです。

実はクリミア戦争時、彼女を最も悩ませたのが、看護婦による患者への改宗の勧誘だったからです。

彼女は、宗教的立場とかかわりなく、

「鋭い観察力とよく動く手」

を持った看護婦こそが世に必要とされていると確信していました。

そして、

「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」

という言葉を残しています。

生活の中で信仰が生かされるとはこのようなことです。

何宗か何派か、ではなく、神の愛が生活の中で実践されていることが重要なのです。

-*-*-*-*-*-*-

信仰が命あるものとして生き生きと働くように、今日の一日を歩んで参りましょう。

2012.09.27

今日のみ言葉【No.409】(2012年 9月27日)

御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
(第2テモテ4:2)

——————

日本で車のリースが始まってから50年。今や国内で300万台のリース車両が走っています。

サービスが普及した理由は、リース会社が車のメンテナンスや、時には事故処理までも一手に引き受けてくれるからです。

国内最大手の会社のメンテナンスは、一風変わっています。

エンジンオイルは通常の5千キロの倍の1万キロ走行の時点で交換。真っ黒になっても替えません。

随分ケチるものだと思いきや、タイヤは「まだ乗れるのに…」と思うほどの溝であっても新品と交換します。

特に雪道を走るスタッドレスタイヤは毎年交換です。

その理由は、

「タイヤが交通事故対策のキーポイント」

と多くの事例から分かっているからです。

タイヤにかける僅かな経費で、交通事故の補償や修理で払う莫大な経費が浮くというわけです。

さすがにナンバー1企業はしっかりと経営の「肝(きも)」を押さえています。

-*-*-*-*-*-*-

パウロが死を前にしてテモテに言い残した、キリスト教の肝、とは何でしょうか?

それは、

「御言を宣べ伝えなさい。」

ということです。

パウロは、「おごそかに命じる」と前置きした後で、今日の聖句を語っています。それだけ重要なことだったのです。

-*-*-*-*-*-*-

御言を宣べ伝えるのには、まず第1に、

「時が良くても悪くても」

です。

今年は暖冬のようだから去年の冬タイヤをそのまま使う…、のではなく、リース会社が毎年きちんと替えるように、時の良し悪し、人が聞いてくれるくれないに関係なく、忠実に御言葉を語ることです。

-*-*-*-*-*-*-

第2に、

「寛容な心で」

です。

もしあなたが、

「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
(マタイ5:39)

という御言葉を伝えたら、これを初めて聞く人たちとの間で一波乱あることでしょう。

反対意見や冷やかし、自己中心な解釈等に出会うこともあります。

ですから、寛容な心が必要なのです。

-*-*-*-*-*-*-

3番目に、

「よく教えて、責め、戒め、勧めなさい」

です。

教えるとは、その人の理解できるレベルで福音を語ることです。

責め、戒めるとは、神の前にその人を引き出すことです。

つまり、その人が御言葉の光に照らされた自分自身を見ることが出来るように語る、ということです。

-*-*-*-*-*-*-

御言葉を宣べ伝えることが、あなたの人生を豊かにします。

御言葉を伝える時に、誤解や迫害を生むことがあるかもしれません。

しかしそれは、リース会社が新品タイヤの料金を払うという、一見損に見えることと同じような事です。

やがてその出費が多くの交通事故を未然に防ぎ、全体から見ればほんの僅かであったと感じられるようになります。

そのように、あなたの人生でも、御言葉を伝える時の迫害や誤解があるでしょうが、それを補って余りある神様の祝福と、災いを未然に防いで下さった、という体験をするのです。

-*-*-*-*-*-*-

神の守りを信じ、時が良くても悪くても御言葉を伝える人生を送って参りましょう。

2012.09.26

今日のみ言葉【No.408】(2012年 9月26日)

しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
(第2テモテ3:1)

——————

今日の聖句を読むと、クリスチャンとして生きることが大変恐いことのように思えてきます。

しかしこれは12節に

「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」

とあるように、キリストを信じる方向に進めば進むほど、周りの価値観とぶつかる事態が生じることを意味します。

神の御心に沿ったきよい生き方をしようとすれば、それを賞賛してくれる人もいますが、妨害する人も出てくるのが世の中のありのままの姿です。

-*-*-*-*-*-*-

外からの迫害もありますが、私たちの内側にも問題があります。

喜びなら歓迎しますが、苦しみからは逃げ出したい心です。

キリストの弟子たちの姿にそれが現れています。

ゲッセマネの園で血のような汗をしたたらせて祈るイエス様を尻目に、弟子たちは眠っていました。

十字架につけられるために捕らえられた時、彼らはイエス様を捨てて逃げ去ってしまいました。

頭では「たとえ死んでもあなたについて行く」と考えていたペテロでさえそうなのですから、

「ピンチはチャンス!」
「クレームは宝の山!」

という積極思考で頭の中を満たしても、苦難を乗り切れる保証はありません。

-*-*-*-*-*-*-

聖書の言うポイントは、苦難を克服したり、征服しようとして敵対しようとしないことです。

試練が与えられるのは、神が許可されたからです。

苦難が来るのを

「おかしい…」

と思わずに、神様から与えられたものとして受け取ることがポイントです。

なぜなら聖書はこう語るからです。

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」
(第1コリント10:13)

試練の最中は、

「ここから逃れる術など無い!」

と思うほどの苦しみを味わいますが、私たちの過去を振り返ってみると、いずれの苦難も何らかの形で脱出してきたからこそ今があります。

私たちを愛する方が、人格的に接する意味で、この苦難を与えて下さっているのです。

それが

「耐えられないような試錬に会わせることはない」

ということであり、

「耐えられるように、のがれる道も備えて下さる」

ということなのです。

-*-*-*-*-*-*-

今日一日を、神と共に静かに過ごす一日として参りましょう。

-*-*-*-*-*-*-

※お知らせ※

●過去の記事は全て下記サイトで公開しています。
http://mikotoba.nows.jp

2012.09.25

今日のみ言葉【No.407】(2012年 9月25日)

そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
(第2テモテ2:1)

——————

どの宗教でも同じですが、信仰を持った親の言葉で子どもが傷つく場合があります。

最も多いのは、

「神の恵みだね」
「○○様のお陰ね」

というものです。

お子さんは

「あれだけ頑張ったからだ!」
「努力が実を結んだね!」

と、ほめてもらい、自分の努力を承認されたい、と思っているのですが、

「神の恵み」
「○○様のお陰」

という言葉で、

「あ、そっちに全部持って行かれた…」

と感じます。

自分の努力が全否定され、

「私が努力をしてもしなくても、この親には全く関係がないんだ。」

と思い、悲しくなったり頭に来たりします。

-*-*-*-*-*-*-

「神の恵み」という言葉が効果を発するのは、自分が相当余裕を持っている時か、その正反対の、壁にぶつかり行き詰まりを感じている時です。

テモテは後者の方でした。

パウロが彼に

「キリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」

と語ったのは、ただ単に「頑張れ!」と励ますことではありませんでした。

テモテは胃潰瘍を発症するほど頑張ったのです。

見当違いの努力であったかもしれませんが、頑張った挙げ句に病気をもらった時の人間の気持ちを考えてみて下さい。

四方八方、どの方向を見ても解決が見えないところに、パウロが天を指さし、

「神の恵みがあるよ」

と示したのです。

-*-*-*-*-*-*-

「キリスト・イエスにある恵みによって」

とは、

「神の約束を信頼して」

ということです。

あなたが自己実現と称し、自分の方向に進んでいるのなら、神の約束が果たされるかというと、

「?」

でしょう。

しかし、テモテのように神の働きを成そうとしているなら、神様は全面的にあなたをバックアップして下さいます。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」
(ヨハネ3:16)

「どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」
(ローマ8:32)

-*-*-*-*-*-*-

神の働きをなすということは、自分を生かすことでもあります。

それは、まず、神様が自分に与えた賜物を発見することから始まります。

自分のやりたい放題に生きることで人は幸せになるのではありません。

自分に才能を与えてくださった神様の意図を知り、この与えられた力をどう使えば私に対する神の計画が果たされるのか、を求めていくところに幸福があるのです。

-*-*-*-*-*-*-

神はあなたの味方です。ご計画を求め、約束を信頼して歩んで参りましょう。

Next »