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2013.02.28

今日のみ言葉【No.514】(2013年 2月28日)

また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。
(民数記3:38)

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中東問題のニュースでよく映されるイスラエルの「嘆きの壁」は、かつての壮大な神殿の一部です。

今から約二千年前、ローマ軍によってその石造りの神殿は破壊され、西側の壁だけが残されました。

そこから更に千何百年前のモーセの時代、荒野であちらこちらへと移動しながら生活する民のために「神殿」が必要となりました。

それが幕屋です。

つまり、幕屋とは、「組み立て式移動神殿」と言うことができるでしょう。

後のソロモン王が建築した壮麗な神殿の原型となったこの幕屋の構造と、日本の神社の構造にはかなりの共通点があります。

日本人は神社をイメージしながら幕屋を想像すると理解の助けになるでしょう。

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幕屋の東側、入り口に一番近いところに、モーセとアロンとその子どもたちの4人だけの場所が定められました。

神に一番近いところに宿営したのです。

彼らの役目は、民を神に結びつける働きです。

教会の牧師の働きはこれと同じで、牧師は常に神の心のそば近くにいなければなりません。

そして、人々の霊的必要に応えるのです。

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但しこれが、「○○先生でないと…」となると誤りになります。

確かに牧師の能力や人脈によってお助けできる場合もありますが、できないケースもあります。

人が祈りに応えたり、霊的必要を満たすのではありません。

真の牧者はイエス・キリストです。

キリストが私のためにいつも神の門の入り口にいて助けようとされているのだ、と信頼を新たにすることです。

霊的生活の入り口はここにあります。

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あなたの牧師・指導者のために祈るひとときを持って参りましょう。

2013.02.27

今日のみ言葉【No.513】(2013年 2月27日)

わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。
(レビ記25:21)

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人間が7日に1回休み(安息日)をとるように、神は地にも安息を与えるように命じられました。

6年間農作物をとった地は、7年目には何の耕作もせず、休ませなければならなかったのです。

民はこのことに不安を覚えました。

「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」
(レビ記25:20)

神は民に信頼を与えるために、休みとなる前の年には3年分の産物を実らせると約束なさいました。

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このことはただ単に、神の不思議なわざ、として終わらせてはなりません。

この後にこう続くからです。

「地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。」
(レビ記25:23)

土地はこの世では登記して自分の所有となるにしても、本来の所有者は

「地はわたしのものだからである。」

と言われる神のものだということを覚えなければなりません。

そのことを具体的に知るために、7年目の土地の休みを神は命じられました。

そして、そのことによって、イスラエルは土地に縛られることがなくなりました。

世界を自由に行き来し、移り住むことができたのです。

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捧げることによって人は自由を得ます。

7日に1回安息日を守ることで、1日を神に捧げます。

本来なら時間の全ては神のものですから、全部の時間を神にお捧げしなければならないのですが、1日だけでよしとされたのです。

これによって、

「24時間、365日、全部自分の時間だと思っていたけど、そうじゃないんだ。」

と、時間をむさぼり、自分のためにならない時間の使い方はしないという狭い考え方から自然に抜け出せます。

クリスチャンが献金することもしかりです。

本来なら全て神から与えられているのですから、全収入を神にお返しして当然のところを、その気持ちの表れとして一部だけでよしとされているのです。

これによって、

「私が働いて稼いだお金なんだから、自分のために使って何が悪い。」

という考えから解放されます。

もともとは神のもの。それを使わせていただいている、という新しいお金の使い方へと導かれていきます。

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この神の恵みは信じて実行した者だけに与えられます。

ただしそれは、7年目の休みの年、食物が何もなく、飢えに耐え抜いた人だけが8年目にご褒美として与えられる…、というものではありません。

神は休みの年の前の年、

「三か年分の産物を実らせる」

と約束しておられます。

準備をしているから、その恵みに応答して7年目を休みなさい、と言っておられるのです。

何という至れり尽くせりの神でしょうか!

この神の愛に感謝し、神の愛があることを信じて生きるところに人生の醍醐味があります。

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主の備えがあることを、静かに信じ待つ一日として参りましょう。

2013.02.26

今日のみ言葉【No.512】(2013年 2月26日)

すべてきずのあるものはささげてはならない。それはあなたがたのために、受け入れられないからである。
(レビ記22:20)

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今年もバレンタインデイのチョコをいただきました。

お返しのホワイトデイも忘れるな、と宣伝する商魂たくましいお菓子業界の口車に乗るわけではありませんが、心からの贈り物に対しては心からの返礼をしたいと思います。

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今日の聖句は、神様への捧げものについての規定ですが、

「すべてきずのあるものはささげてはならない。」

とあります。

このような個所を読むと、神様があら探しをしているようで、教会に何も持って行けないと感じる人が出てきます。

人間には過酷すぎる律法ではないでしょうか?

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ここは私たちが持って行くもの、すなわち人間の側に焦点を当てるのではなく、神の側に焦点を当てて読むのが正しい読み方です。

人間は不完全ですが、神様は完全な方です。

ですから、傷のない完全ないけにえこそふさわしいのです。

賞味期限切れで捨てられるのをも待つばかりのお菓子を、

「どうせ誰も食べないんだし、もったいないし、ちょうどいいかも…。」

と、神の御前に持って行っても、それは恐るべき完全さと輝きを持った神様にはふさわしくないということなのです。

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」
(サムエル記上16:7)

とあるように、神様は私たちの心を見られるのです。

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あるおばあちゃんが、

「教会で新車を1台買って下さい。」

と、まとまった金額の献金をされました。

牧師は、新車1台より中古車を数台購入した方が教会全体の働きのために良かろうと思い、その旨をおばあちゃんに伝えました。

「はいはい、教会のためになるなら、それでもかまいませんよ。」

という返事を期待して行ったところ、

「○○先生、私は新車を捧げたいのです。中古車を買うというのなら献金致しません!」

と、あに図らんや、叱られてしまいました。

新車にこだわるおばあちゃんには、神様のために最高のものを捧げたい、という心があったのです。

献金の額や、どれほどやったかの量ではなく、神の御前での心が大事なのです。

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心を見られる神様に、私たちも心からのものを捧げて参りましょう。

2013.02.25

今日のみ言葉【No.511】(2013年 2月25日)

わたしはあなたがたの神、主である。
(レビ記18:3)

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今日の聖句ではその前に、かつて住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない、と言われています。

また、これから入るカナンの国の習慣も見習ってはなりません。

古代イスラエルは次節のように生きることが求められていました。

「わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。」
(レビ記18:4)

一見して随分縛られた窮屈な生活を強いられているように感じます。

しかし、これはイスラエルが他民族の習慣に流されず、聖なるユニークな存在として生きよ、ということなのです。

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私たちはこの世に生きていると、流されることばかりです。

車を運転していると車の流れというものがあります。

都会から田舎に転勤すると、いつの間にか地元の言葉遣いとアクセントになっています。

日本にしか住んでいないと、私は日本人独特の考え方をしているのだ、とは思いもつきません。

私たちはこの世から影響を受けて暮らしているのです。

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時に圧力とさえ感じられ、流されそうになるこの世のプレッシャーをどう扱っていったらいいのでしょうか?

その答えが、

「わたしはあなたがたの神、主である。」

という今日の聖句です。

人の顔色が「主」になっていたり、経済の問題が「主」になっていたり、私たちは無意識にそのような「主人」に動かされているものです。

神以外のものが「主」になっていたら、神を主ととする生き方に方向転換しましょう。

あなたという家の「主人」は、あなた自身から神に変わりました。ですから、大きなことは全て神が裁量を下します。

あなたが表立って重い責任をウンウン言いながら負う必要はなくなります。

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ただし、今までの主人であった「人の顔色」や「お金」に動かされていたように、今度は神様に動かされるようになります。

神を主としたら、のんべんだらりと楽な生活を送れるかというと、そうでもないのです。

選手の上達を願うコーチが特訓を施し、子が正しく育つようにと親は厳しいしつけをするように、神様は私たちの成長を願い、次々と、休む間もなく課題を出し続けられます。

しかし、それは愛から出たことゆえに耐えられるのです。

神を主としていると、その陰にある「愛ゆえ」という意味が見えるので、時には自ら試練の中に飛び込んでいくこともできるでしょう。

神は聖い道を真っすぐに歩んでいけるように力づけて下さいます。

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「私は何を主として生きているだろう?」と問い直す一日として参りましょう。

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2013.02.23

今日のみ言葉【No.510】(2013年 2月23日)

主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。
(レビ記16:2)

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大雪の日に米沢に行く時は、重装備で行くことにしています。

たとえ日帰りでも着替え等の宿泊セット一式。防寒具は2着。もちろん長靴。雪にはまって動けなくなった時用のスコップ等々。

運転の仕方は、スピードを出さず、十分な車間距離、早め早めのブレーキ。

こういう制限の中で冬期の運転をしなければならないのに比べて、1年中、冬も夏も同じ感覚で走れる地方の人は何と幸せかと思います。

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今日の聖句では、祭司アロンでさえ自由に聖所の中を行き来できなかったことが書かれてあります。

神の前に出るには、いけにえを規定通り捧げたり、水で身を清めたり、衣服の着方も決まっていました。

行きたい時、手ぶらでそのまま神の御前に出るなどあり得ませんでした。

もしそんなことをしたら、聖なる神の前に罪ある人間が出ることになります。

それはたとえて言えば、油を引いて熱々に熱したフライパンに水を1滴注ぐようなものです。

あっという間にはじけてしまいます。

「彼が死を免れるためである。」

という表現は嘘ではなかったのです。

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しかし、イエス・キリスト到来以後の今は違います。

イエス様が完全ないけにえとなって下さったので、人間が神の前に出る時には、ただ信仰のみで良いのです。

自由に、どこででも、自分がどんな状況にあれ、神の前に出て祈りを捧げることができるようになりました。

それは雪国の人が一気に首都圏に来たようなものです。

あの重装備は一切いらなくなりました。

どこで路面が凍ってスリップするか分からないという恐れを持ちながら運転しなくてもよくなりました。

身軽に生きられるのがイエス・キリストを信じる人生なのです。

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首都圏を運転しているのに、まだ重装備の方はいらっしゃいませんか?

自分から暴走運転をしない限りスリップすることはないのに、いつ自分の人生が滑って転ぶかとビクビク生きている人はいらっしゃいませんか?

重荷を下ろしましょう。

それは自分を許すことです。

キリストの十字架を信じて、身軽な人生の運転をしていきたいものです。

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今週1週間の全ての罪・とが・過ちが赦されていることを確認して参りましょう。

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