Home > 6月, 2013

2013.06.29

今日のみ言葉【No.601】(2013年 6月29日)

多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである。
(サムエル記上14:6)

——————

サウルの子はヨナタンと言います。英語読みだとジョナサン(Jonathan)です。

後に彼はダビデと親友になります。ダビデの英語読みはデビッド(David)です。

欧米人によくある名前です。

いかに聖書が生活に浸透しているかがこのことでもよくわかります。

-*-*-*-*-*-*-

ヨナタンは武器を持った部下とたった二人でペリシテの大軍に当たりました。

神が共にいるという信仰のゆえです。

常識的に考えれば全く無謀な行いです。

しかし結果はどうであったかというと、ペリシテ人は敵イスラエル(この時点ではたった二人)の来襲にあわてふためき、

「すべての民は恐怖に襲われ、…、ペリシテびとの群衆はくずれて右往左往していた。」
(サムエル記上14:15-16)

となりました。

形勢の変化を見て取ったサウル王とその配下600人(それでも少数)は戦いに打って出ます。

ペリシテ人はますます混乱し、内部で同士討ちを始めてしまいました。

すると、今まで逃げ隠れていたイスラエル人が、「ペリシテ人が逃げ出した」と聞いて戦いに戻り、彼らを追撃しました。

こうして

「主はその日イスラエルを救われた」
(サムエル記上14:23)

のです。

-*-*-*-*-*-*-

しばしば人類社会は

「とんでもなくばかげた考えを持った信仰者」

たちによって動かされてきました。

路上で死にゆく名もない人をケアしたマザー・テレサしかり、

黒人奴隷解放宣言をしたリンカーンしかり、

6千人の命のビザを書いた杉原千畝しかり…。

神が共におられるなら、現実は変えられていくのです。

-*-*-*-*-*-*-

神が共におられると信じているなら、あなたなりの信仰の一歩を踏み出して参りましょう。

2013.06.28

今日のみ言葉【No.600】(2013年 6月28日)

あなたは愚かなことをした。
(サムエル記上13:13)

——————

「ちゃんと出来なければ人に嫌われる」

という考えは完全な誤解です。

もしあなたのまわりに何でも完璧にこなす人がいたら、その人と友達になろうとするでしょうか?

むしろ、「あれもミスった」「あっちも抜けた」という欠点がある人だとこちらも近づきやすいのです。

物事を正確に出来るに越したことはありませんが、そうでなければ人に受け入れられないということではないのです。

-*-*-*-*-*-*-

ただし、自分の失敗に対して言い訳をしたり、正当化しようとした場合は別です。

サウルの失敗は、サムエルが来る前に燔祭をささげたことでした。

戦いの前に神にいけにえを捧げるのですから、これは敬虔な振る舞いのように見えます。

しかし、彼は焦って分を越えたことをしてしまったのです。

サウルは王でしたが祭司ではありません。

そして戦いが緊急の様相を呈していたとしても、そこに神の支配があることを忘れ、祭司がするべき業を自分で進めてしまいました。

サムエルが遅れて到着したとき、サウルは、

「やむを得ず燔祭をささげました」。

と悔い改めでなく言い訳をしました。

「あなたは愚かなことをした。」

と祭司サムエルが鋭く指摘したのも当然です。

-*-*-*-*-*-*-

失敗したときは、失敗した自分を認め、

「またやってしまいました!」

と受け入れることがよいのです。

そして素直に神の前に出て、許しを請うのです。

神はイエス・キリストの十字架のゆえに私たちをゆるしてくださいます。

失敗を直そうとするのではなく、失敗したままの自分で居続けること。

ありのままの本当の私に働きかけるのが神ですから、居心地は悪いかもしれませんが、そこに神のお取り扱いがあります。

「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」
(第1コリント1:25)

-*-*-*-*-*-*-

小手先の業でごまかさず、神に直接ぶつかっていく態度で今日一日も歩んで参りましょう。

2013.06.27

今日のみ言葉【No.599】(2013年 6月27日)

そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。
(サムエル記上12:24)

——————

サッカーでも野球でも負けが込んでいるチームほど、

「よし、次がんばろう!」

と気持ちを前向きに切り替えようとしているものです。

案外これが良くないというのです。

スポーツのメンタル強化の専門家は、

「悔しさや辛さといった感情からも、敗因をよく分析することからも逃げてしまっているから、いつまでも強くなれない。」

と指摘します。

負けたことで

「自分はダメだ」

と自己否定までする必要はありません。

しかし、悔しさやつらさといったネガティブな感情をしっかり味わうことは必要なのです。

そしてそこから生まれる思いに本当の前進力があるのです。

-*-*-*-*-*-*-

サムエル記で神は民にそのことを求めています。

人々が王を求めたのは、神に対する不信からでした。

彼らは目に見える人の統治を求めたのです。

神は祭司サムエルを通してその罪を指摘されましたが、

「主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられない」
(サムエル記上12:22)

とも告げられました。

ですから、

「主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。」

とサムエルは民に諭したのです。

-*-*-*-*-*-*-

いきなり

「すみませんでした」

「今後気をつけます」

と行動を変えようとせず、

「主がどんなに大きいことを私のためになされたか」

を考え、じっくりその思いに浸るのです。

そして、そこからじわじわとわき上がる思いを大切にするのです。

神はそのことを人間に求めておられます。

-*-*-*-*-*-*-

神が私たちの人生になされた数々の出来事を思い起こす一日として参りましょう。

2013.06.26

今日のみ言葉【No.598】(2013年 6月26日)

サウルとイスラエルの人々は皆、その所で大いに祝った。
(サムエル記上11:15)

——————

ストレスに免疫はないといいます。

確かにある程度の耐える力はつきますが、

「はしかのように免疫ができたのでストレスにかからなくなった」

ということはありません。

つまり、生きている限り、「嫌だな」と感じる出来事は起き続けるということです。

-*-*-*-*-*-*-

お釈迦様が苦行を自分に課したのは、このストレス免疫を目指したのかもしれません。

しかし菩提樹の下で少女がくれた乳粥をもらい、苦行の無意味さを知らされます。

そのことが重大なきっかけとなり、悟りを開くわけです。

諸行無常。

現代流に言えば、苦しみは起き続けるがそれは永遠に続くのではない。喜びもまた同じ。

その現実をあきらかに見ることが「諦め(あきらめ)」

ストレスは受け流すがよろし、ということでしょうか。

-*-*-*-*-*-*-

聖書では諦めではなく、生きた人格的神が積極的に人生に働きかけることを宣言しています。

サムエル記上11章では、サウルの即位後、すぐにアンモン人が攻めてきたことが記されています。

ようやく王が決まり、新体制でスタートした矢先に何という災いが襲ってきたことでしょうか。

しかし、

「サウルがこの言葉を聞いた時、神の霊が激しく彼の上に臨んだ」
(サムエル記上11:6)

とあります。

サウル王は神の力をいただき、アンモン人を撃ち破ります。

そして今日の聖句の

「サウルとイスラエルの人々は皆、その所で大いに祝った。」

となるのです。

-*-*-*-*-*-*-

主にある苦難は喜びの初めです。

苦難や思いもかけない出来事は生きていく中で完全には避けることができません。

「とうとう当たってしまった…」

とか

「用心していたのに結局落とし穴にはまった…」

などとは考えないようにしましょう。

アンモン人の襲撃があったからこそ、イスラエルはサウル王を中心として団結することができ、その後の勝利を祝うことができたのです。

神が私たちの人生に積極的に関わろうとしていることを忘れてはいけません。

そこに

「あきらめるしかない…」

で終わっていた人生から、

「チャレンジできる人生」

への転換点があります。

-*-*-*-*-*-*-

ストレスを感じるときこそ、神に祈り、その働きに期待しましょう。

2013.06.25

今日のみ言葉【No.597】(2013年 6月25日)

神は彼に新しい心を与えられた。
(サムエル記上10:9)

——————

誰でも一度はプレイしたことのある任天堂のスーパーマリオブラザーズ。

世界一売れたゲームとしてギネスブックにも載っています。

キノコやフラワーなどのアイテムをとるとパワーアップしますが、特に星のアイテムをとると一定時間マリオは無敵になります。

どんな敵にぶつかっても相手を倒してしまう爽快な時間です。

しかしこの時間、じっとして止まっていたら何も起こりません。

実はサウルがそのようなもったいないことをした人でした。

-*-*-*-*-*-*-

彼は神に選ばれ、イスラエルの王として定められました。

祭司サムエルを通して与えられた預言はことごとくサウルの身に起きました。

そして、

「これらのしるしが、あなたの身に起ったならば、あなたは手当りしだいになんでもしなさい。神があなたと一緒におられるからです。」
(サムエル記上10:7)

という保証まで得られました。

しかし彼には自信がありませんでした。

おじさんにはろばのことだけ報告し、王国のことは告げませんでした。

サウルが王として選ばれるくじに当たったときも、彼は荷物の間に隠れていました。

-*-*-*-*-*-*-

自分の内側だけを見ていると、自信は湧いてきません。

神がサウルを選ばれ、

「神は彼に新しい心を与えられた。」

のです。

サウルの能力が認められたのではなく、神が新しい心を与えたので彼は王となれたのです。

自分を選んでくださった神に目をとめ、それゆえに王として立つ、という以外、王を続ける道はありません。

-*-*-*-*-*-*-

これはクリスチャンも同じです。

自分とこの世の人々を比べたら、サウルと同じように引っ込んでしまいたくなります。

「あなたそれでもクリスチャン?」

と言われてもおかしくない自分であることを知っているからです。

しかし、

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」
(ヨハネ15:16)

という御言葉の上に立つのです。

自分は取るに足りない者。

しかしその私を選び、罪を赦し、きよめて神の子としてくださったイエス・キリストの全権大使として生きるのです。

そうやって堂々と生きている中に神は確かに働いてくださるのです。

-*-*-*-*-*-*-

山谷で伝道されている女性伝道師、森本春子牧師のところにヤクザが脅しにきたときの話です。

教会をこの地から追い払おうと、ヤクザが散々まくし立てた後、森本先生は一言こうおっしゃいました。

「親分さん、私のバックは相当な方ですよ」

もちろん森本先生は、自分の背後にいらっしゃるイエス・キリストの存在と神の力を語ったわけですが、ヤクザはそう取らなかったようです。

バックといえば裏の世界ではその人の後ろ盾となっている○○組の親分のことを意味します。

あまりにも大胆な森本牧師の態度に、「これはどこかの組の大親分がバックについているらしい」とそのヤクザは思ったようです。

すごすごと引き帰り、二度とやってくることはありませんでした。

-*-*-*-*-*-*-

神の召しと選びの上に立つことです。

そこに立つときにのみ力が与えられるからです。

新しい命を与えてくださった神様とともに今日一日も歩んで参りましょう。

Next »