Home > 9月, 2013

2013.09.30

今日のみ言葉【No.660】(2013年 9月30日)

七度目にしもべは言った、「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」。
(列王紀上18:44)

——————

列王紀上18章はすぐお読みになることを勧めします。

エリヤがバアルの預言者450人と対決し、神が天から下した火で勝負をつけ、悪王アハブの鼻を明かす痛快この上ない個所です。

まさに勧善懲悪。

テレビの水戸黄門を見終わった時のような爽快感と安心感を味わえます。

-*-*-*-*-*-*-

さて、イスラエルに雨が降らないことを預言して3年目、いよいよ雨が降ることを神はエリヤに語られます。

バアルの預言者との対決が終えた今がその時なのではないでしょうか?

しかしまだ雨は降りません。

「エリヤはカルメルの頂に登り、地に伏して顔をひざの間に入れていた」
(列王紀上18:42)

彼はひたすら祈っていたのです。

しもべに

「上っていって海の方を見なさい」

と命じますが、そのたびに

「何もありません」

という答…。

エリヤはスーパーマンではないのです。

エリヤの力は神から来ていることが最後の部分ではっきりと記されています。

-*-*-*-*-*-*-

神は祈りに応えられます。

しかし、神の約束を聞き、その成就を見るまで、エリヤは7たびも

「何もありません」

というしもべからの答を聞くのです。

即座にきかれる祈りもありますが、多くの祈りは長い時を経てきかれます。

それまで何回、

「何もありません」

という答を聞くことでしょうか。

しかしその間に、私たちの内の不純な思い、我欲、自己中心な思いが一つ一つ取り去られ、神の御心と一致するまでになるのです。

その時が神の時です。

神はあなたの思い通りに祈りをかなえられません。

願ったことはその通りにはなりません。

しかし、私たちの思いを越えた、もっと良いものとしてその祈りをかなえて下さるのです。

-*-*-*-*-*-*-

祈りが応えられないからといって、少々のことでへこたれてはいけません。

たとえ今日、

「何もありません」

という結果のみであったとしても、必ず最善となると信じ、祈りの中で神様のお取り扱いを受けましょう。

そこに主のまっすぐな道があります。

-*-*-*-*-*-*-

●み言葉メールを新たに申し込みたい方や配信停止を希望される方へ。

以下のアドレス宛に、件名・本文無しの空メールを送信して下さい。

・新規申込
reg@mikotoba.nows.jp
・配信停止
del@mikotoba.nows.jp

※ご注意
ご登録されるとすぐに申込確認メールが自動送信されます。
3分たっても来ない場合は

からのメールが迷惑メールと判定され、ブロックされているからです。
そのままだと「今日のみ言葉メール」が受信できませんので、ご自分の「迷惑メール設定」を変更して下さいますようお願いいたします。

2013.09.28

今日のみ言葉【No.659】(2013年 9月28日)

わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう
(列王紀上17:4)

——————

王の中には極悪人という名前がふさわしいほどの悪王がいました。

代表的なのはアハブ王です。

ところが、悪王がのさばる時代に神は大預言者を遣わします。

アハブに対しては、神の人エリヤです。

王は時の権力者であり、その強大な力で王に刃向かうものを殺してしまいます。

エリヤもそうなる危険がありました。

ですから、アハブ王に対して、

「わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」

という神の預言を告げた後、エリヤはケリテ川のほとりに身を隠せ、と神から命ぜられます。

-*-*-*-*-*-*-

ケリテ川のほとりとは、何の保証もない、人里離れた場所ということです。

川のほとりですから水はありますが、食べ物はどうしたらいいのでしょう?

神の言葉は

「わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」

これが唯一の保証でした。

言葉の通じないからすに何が出来るのでしょうか?

傍から見たら無謀な生き方です。

しかしその保証が確実だから行くのではなく、神の言葉が臨んだからその通りにするのが神の預言者のあり方です。

からすを見るのではなく、その背後におられ、からすを動かされる神を見ていくことがポイントです。

-*-*-*-*-*-*-

私が献身した時、周囲の人々は心配して口々にこう言ったものです。

「どうやって食べていくの?」

30年たって振り返ると、バブルの時代もデフレの時代も、食べるものはほとんど変わらず、飢えることなくここまで来ました。

正確に言うと、1日半の断食と1週間の断食、そして胃カメラを飲む前は食べていません。

それだけです。

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」
(詩篇23:1)

の御言葉通りの人生を歩ませていただいています。

神は神の働き人を守って下さいます。

ただしそれは、御言葉を信じて一歩踏み出した人への保証です。

全く当てになりそうもないからすを通してでも養って下さる神であることを心にとどめ、与えられた一歩を踏み出していきたいものです。

-*-*-*-*-*-*-

神の養いを体験する一日でありますように…。

-*-*-*-*-*-*-

●配信停止は下記に空メールを送信して下さい。
del@mikotoba.nows.jp

●お申し込みも同様です。
reg@mikotoba.nows.jp

2013.09.27

今日のみ言葉【No.658】(2013年 9月27日)

彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし
(列王紀上16:31)

-*-*-*-*-*-*-

サウル、ダビデ、ソロモンと続いた王国は、ソロモンの死後、2つに分裂しました。

10部族の北イスラエル王国と、2部族の南ユダ王国です。

南ユダはダビデの家系で王が続きますが、北イスラエルは違いました。

前の王は今の王に殺され、次の王は今の王を殺して王になる…、という下克上の激しい展開が続きます。

何でこんな事になってしまったのでしょう?

悪政が続いたのは、王たちが

「ヤラベアムの道に歩み、ヤラベアムがイスラエルに犯させたその罪を行った」
(列王紀上16:19)

からだと聖書は述べています。

-*-*-*-*-*-*-

ヤラベアムの罪とは、神に選ばれたのに神に従わなかったことと、偶像礼拝を行ったことです。

つまり、自分の思いを優先させ、神を交換可能なものとなして、「こっちの神がダメなら、あっちの神…」というふうに願望成就の手段とすることです。

これは人が陥りやすく、また、自分がヤラベアムと同じ道を歩んでいると分かっても、なかなか正しい道には戻り難いものです。

戻して下さるのはイエス様のみです。

「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」
(マルコ10:27)

この御言葉に頼っていく時、理屈を越えた神のみ業が現れていくのです。

-*-*-*-*-*-*-

静かに主の救いを待つ一日として参りましょう。

-*-*-*-*-*-*-

●配信停止は下記に空メールを送信して下さい。
del@mikotoba.nows.jp

●お申し込みも同様です。
reg@mikotoba.nows.jp

2013.09.26

今日のみ言葉【No.657】(2013年 9月26日)

アサはその父ダビデがしたように主の目にかなう事をし、
(列王紀上15:11)

——————

バングラデシュという国のある村に農業のボランティアに行ってきた人の話です。

バングラデシュの美人の3条件は、

(1)色が浅黒い
(2)ポチャッとした小太り
(3)目がぱっちりと大きい

だそうです。

そうなると、日本人女性が考える美人の3条件

(1)色が白い
(2)スラッとしてスリム
(3)切れ長の目

とは全く正反対になります。

評価の基準の違いで美しいと思われたり思われなかったりです。

-*-*-*-*-*-*-

神が王を評価する基準は何かというと、

「主の目にかなう事」

をしたかどうかということです。

戦に強くて他国に勝ったとか、経済が豊かになり人々は裕福な暮らしができたとか、ではありません。

主の前にどうあったか、ということが基準であり、これによって王はどうであったかが評価されているのです。

ですから、アサ王は、

「アサはその父ダビデがしたように主の目にかなう事をし、」

とありますので、善王として記録にとどめられています。

-*-*-*-*-*-*-

勉強の成績や仕事の業績など、人の目に留まる部分も神様は見ておられますが、人の目に見えない

「神の前にどうあったか」

を神様は見ておられるのです。

地上の生涯が終わり、天国に着いた時の評価は、この

「主の目にかなう事」

が基準です。

人の目や成績が気になりだしたら、すぐ基準を神の基準へと戻しましょう。

そこに平安へと至る道があります。

-*-*-*-*-*-*-

ゆるされている自分であることを再確認し、神の目にかなうことを行うことを心がける一日として参りましょう。

-*-*-*-*-*-*-

●配信停止は下記に空メールを送信して下さい。
del@mikotoba.nows.jp

●お申し込みも同様です。
reg@mikotoba.nows.jp

2013.09.25

今日のみ言葉【No.656】(2013年 9月25日)

なぜ、他人を装うのですか。
(列王紀上14:6)

——————

高木裕樹先生は牧師になる前、カリスマ美容師として活躍し、芸能人の方もお客様となっていたそうです。

ある時仙台市内を歩いていたら、

「ヤァ!高木さん!」

と見知らぬ風変わりな背の高い男性に声をかけられました。

その人はサングラスをちょっとだけ外して目を見せてくれました。

当時人気絶頂の歌手の郷ひろみさんでした。

全く姿を変えないと表を歩けない芸能人は大変だなあ、と高木先生は思ったそうです。

変装するのには必ず理由があります。

-*-*-*-*-*-*-

北イスラエルの王として政治的成功を収めたヤラベアムの子が病気になりました。

ヤラベアムは自分が王となるという神の御告げを伝えた預言者アビヤのもとに妻を送ります。

ただし、

「立って姿を変え、ヤラベアムの妻であることの知られないようにして」
(列王紀上14:2)

とあります。

なぜ正々堂々と本物の妻ですと表さずに、偽装していったのでしょう?

-*-*-*-*-*-*-

聖書にその理由は書いてありませんから、あくまで想像の域を越えませんが、やはりヤラベアムには罪責感という後ろめたさがあったのではないでしょうか。

彼は北イスラエルの王となるよう、神から選ばれました。

ところが彼は民に偶像礼拝をさせたり、祭司制を曲げたりして、神の御心と正反対のことをしていました。

それは綺麗な言葉で言えば、北イスラエルの民を暴君レハベアムから守るための手段であり、彼の政治力と知恵によって国の運営はうまくいったのです。

しかし、正当な手段ではないことをヤラベアム自身は覚えていたのでしょう。

自分の力ではどうしようもない子どもの病を何とか癒す手段はないものか…、と、預言者アビヤに助けを求めに行こうと考えます。

彼は自分自身では行けません。罪を指摘されることは確実だからです。

そこで妻を送ります。

妻に変装させたのは、ヤラベアムの妻だと分かれば、やはり自分の行いが神の御心に反しているからだと責められる…、と考えたからなのではないでしょうか?

-*-*-*-*-*-*-

人生の勘所はここにあります。

偽装の人生を生きるのか、正直に自分自身を表して生きるのか、このどちらかです。

自分の欠点や過ち、至らなさを表に出すことは辛いことでもありますし、いったん表明してしまったら、その弱みにつけ込む人が出てこないとも限りません。

ですから、人は本当の自分を滅多なことでは出せないでいるのです。

あなたもそうではありませんか?

しかし、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかったイエス・キリストを信じる時、罪は全てゆるされ、帳消しとなり、神が私たちを責めることは永遠になくなりました。

偽装も変装も言い訳もする必要はありません。

そのままの、ありのままの姿で、何も罰を受けることもなく責められることもありません。

それら全てはキリストが請け負って下さり、2000年前に全て片がついているからです。

このことを「本当だ」と信じ、ありのままの自分を一つ一つ認めながら生きるのがクリスチャンの人生です。

そこには常に暖かい神のゆるしの愛が伴います。

-*-*-*-*-*-*-

ありのままで生きていられる恵みを味わいながら、今日一日も歩んで参りましょう。

-*-*-*-*-*-*-

●み言葉メールを新たに申し込みたい方や配信停止を希望される方へ。

以下のアドレス宛に、件名・本文無しの空メールを送信して下さい。

・新規申込
reg@mikotoba.nows.jp
・配信停止
del@mikotoba.nows.jp

※ご注意
ご登録されるとすぐに申込確認メールが自動送信されます。
3分たっても来ない場合は

からのメールが迷惑メールと判定され、ブロックされているからです。
そのままだと「今日のみ言葉メール」が受信できませんので、ご自分の「迷惑メール設定」を変更して下さいますようお願いいたします。

Next »