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2016.11.30

今日のみ言葉【No.1424】(2016年11月30日) 048 「否認を予告されたペテロ」(2)

するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。
(マタイ26:33)

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陸上競技で優勝を重ねる人にこう尋ねたことがあります。

「もしあなたがオリンピックの400メートルリレーのメンバーだとしたら、金メダルを取るというイメージを描いて、自分の気持を高めていこうとするでしょうね?」

すると彼は即座に

「そんなことはありません」

と答えました。

そして、次に彼の口から出た言葉に、私はウ〜ンと唸らされました。

「私はそのメンバーの中で、最も志(こころざし)の低い者でありたいです」

一流アスリートの言葉は違います。

自分以上の方々と共に走らせていただく、という意識の中で最高の結果が得られることをこの選手は体得しておられたのです。

「自分が、自分が!」という我力の世界から全く解放されたところに生きているその選手の姿に、神に任せて生きる生き方を垣間見た思いがしました。

その前の段階で足踏みしていたのが今日の聖書個所のペテロでした。

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ペテロは頑張る人でした。

33節の言葉は、ちょっと乱暴な言い方にして、

「イエス様、こいつらみんないい加減な奴ですけど、俺だけは違いますぜ!」

としたほうが、ぐっと現実味が増すと思われます。

なぜなら、彼は荒くれ漁師たちを束ねる網元だったからです。

トップに立つリーダーは弱音など吐いていられません。

ペテロは前向き積極的で、行け行けGo!Go!と人々を引っ張っていく役目を担っていました。

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ペテロの態度は、勇ましく、信仰深いような様子に見えますが、むきになって言っている雰囲気も感じ取れます。

そのペテロに、イエス様は彼が考えもつかないことを予告されます。

「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」
(マタイ26:34)

それはわずか数時間後に現実になることなのですが、ペテロはそんなことはないと一生懸命否定します。

「ペテロは言った、『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。弟子たちもみな同じように言った。」
(マタイ26:35)

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ペテロは薄々、自分はいざとなったらイエス様を捨てて逃げ出してしまう弱い人間であることを意識していたのでしょう。

だから強烈にイエス様に向かって反論したのだと思われます。

自信のない人は自分の弱さを認められないからです。

たとえば、

「あなた弱虫でしょう」

と言われて、自分の弱さを認めていない人は、それを否定したり、強がったりします。

「何言ってるんですか!弱虫なんかじゃありません!」

一方、自信のある人は、弱さを含めてそれが自分だ、と受け入れているので、

「ええ、そうなんです。弱い自分がいます。弱虫、当たりですね。」

と認めることができます。

ペテロはまだ自分の本当の姿を知りません。

そして何より、自分の力でイエス様について行けるものと思っています。

ここにペテロの罪がありました。

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何でも自分の力でできると思い込み、神抜きで生きていこうとする生き方。

それが人間の基本的な罪なのです。

たとえて言えば、無免許で車を運転するようなものです。

速度制限やら一時停止やら、どんなに交通ルールを守って完璧な運転をしても、運転すること自体が罪なのですから、車を走らせれば走らせるほど罪を重ねることになります。

イエス・キリストは、ペテロに代表される私たち人間をそのまま走らせ、とがめることをなさいません。

そして、やがて行き詰まりを覚えた時に

「やっとわかったか!言った通りだったろう!」

などと非難することなく、そのあるがままを受け止めて下さり、罪を身代わりに負ったからそれを信じて安心して進め、と言われる御方なのです。

ここにおいて、人は本当の意味でイエス・キリストとの出会いを体験します。

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弱さと行き詰まりの先にあるものは、絶望ではありません。

そこにあるのはキリストの招きです。

待っていて下さるイエス・キリストとの出会いを体験することができますように…。

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2016.11.29

今日のみ言葉【No.1423】(2016年11月29日) 048 「否認を予告されたペテロ」(1)

今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。
(マタイ26:31)

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「先生につまずきました」

そう言って教会を去る人を見送った体験を持たない牧師はいません。

神はあえてそのように双方共に傷つく悲しい体験を起こるがままにさせておかれます。

神はその挫折体験を用いて、人に従順と謙遜、そして強さを身につけさせるからです。

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イエス様は弟子たちに

「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。」
(マタイ26:31)

と告げられました。

そして、旧約聖書ゼカリヤ書第13章7節の言葉を引用されました。

「『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。」
(マタイ26:31)

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「つまずく」とは「神様がわからなくなった」という体験をするということです。

よく聞く例は

「聖書の言葉通りやったけど、そうならない」

「祈っても、結局助けは来なかった」

「これがキリスト教か。生きて働く神はどこにいる」

というものです。

神につまずき、人につまずき、祈りにつまずき、心の生傷だらけで立ち上がることができません。

それに対して、「な〜に、疲れただけだよ」と一蹴することもできます。

確かに、ダメージを受けても回復が早い人はいらっしゃいます。

また、挫折を多く経験すると、人はそこからいかにして自分を立ち直らせるかの技術を習得するものです。

しかし、しかしです。

「まさかあの人がそうなるなんて…」

「まさか自分がこうなるとは…」

という現実を見なければならなくなった時、そのショックは相当大きいものです。

それを乗り越え、その先も大丈夫なのだと教えるために、あえてイエス様は

「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。」
(マタイ26:31)

と予告をなさったのです。

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ゼカリヤ書第13章7節以降を読むと、

・打たれる羊飼とはイエス・キリストのこと

・羊は精錬されるために散らされる

・最終的に羊は神のみもとに導かれる

ということが分かります。

弟子たちはこの後、予想もしなかったほどの失望落胆の末、故郷のガリラヤに戻っていきますが、イエス様は「先にガリラヤに」行くとも約束しておられます。

イエス様は、散らされた者、つまづいた者の先に立って導かれるという約束通りに行動されるのです。

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神に献身し、牧師・伝道者になろうとする人は、

「必ず挫折しなければならない」

と表現せずにはおれないくらい、挫折と行き詰まりを経験させられます。

自分の力で神のわざをなしたと言わせないための神のご配慮なのだと思います。

とにかく一度は、

「私には神様の御用などできるはずがない。そんな力など無い」

「神様からの召命の御言葉…。あれは聞き間違いだった。自分の心の中の願望を神様から聞いたと錯覚したのだ」

などと思って逃げ出します。

突然教会から姿をくらます人、実家に帰る人などはわかりやすい方です。

そこまで強くない人は、無意識に自分の体に病気を招き、周りから「仕方がない」と太鼓判を押してもらってからようやく離れます。

「私って一体何なんだろうなあ」

「神様って、どこにいるのかなあ」

そういう時期をしばらく通らされます。

そして、一生懸命神様がいらっしゃる痕跡でも探そうとしますが、見えませんし分かりません。

この期間、姿を見せないことが神様側のお仕事だからです。

そして、どうしようもなくなって、本当に無理なのだ、とわかった時に、不思議と神様側から探し当てられ、

「もう一度やってみないか」

と声がかけられます。

ここで、「やる」とも「やらない」とも言うことができず、

「御心ならばお従いいたします」

という本当の献身ができるのです。

ここまでが神の器となるための下ごしらえです。

こういう人となって初めて、神はご自身の器として、自由自在にその人を用いることができるようになるのです。

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挫折と行き詰まりはあって当たり前です。

神はそれを必要なものとして用いられます。

全てに神の愛のご計画があると信じて、今日もチャレンジして参りましょう。

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2016.11.27

今日のみ言葉【No.1422】(2016年11月28日) 047 「裏切ることを予告されたユダ」(3)

「友よ、なんのためにきたのか」
(マタイ26:50)

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私の好きな洋楽にビリー・ジョエルの「Honesty(オネスティ)」があります。

名曲です。テレビCMにもよく使われているので、どこかで聞いた覚えがあるはずです。

●東京ドーム公演の動画

特にサビの部分の歌詞が聞く人の共感を呼んだのではないでしょうか。

“Honesty is such a lonely word.”
「誠実――何と空しい言葉だろう」

“Everyone is so untrue.”
「誰もがあまりにも不誠実だから」

“Honesty is hardly ever heard.”
「誠実――聞いたことすらない」

“And mostly what I need from you.”
「でも、あなたに欲しいものはそれなんだ」

残念ながら、人が相手に誠実さを求め、裏切られ続けるのは世の常です。

嘘をつかれ、騙されたら、相手に何とかして償いをさせたいと思います。

それを求めることが無理だとわかれば、その人と手を切らなければなりません。

でないと、自分が傷つき続けてしまいます。

これが人間の限界です。

その限界を超えた愛を示したのがイエス・キリストのユダに対する態度です。

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自分を愛してくれる者を愛することはたやすいことです。

しかしイエス様は

「罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している」
(ルカ6:32)

と語られています。

むしろ、

「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
(マタイ5:44)

とおっしゃいました。

その時に愛が本物であるかどうかがわかるからです。

外の敵と戦うことはまだ易しいことです。

しかし、内側に敵が現れるということは、大きな痛手を味わいます。

自分の愛する弟子が敵に回るという、耐えられないような悲しみの中で、イエス様はユダに最後の最後まで悔い改めのチャンスを与え、尊敬すべき人格的存在として接しました。

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イエス様がユダと最後に顔を合わせたのは、ゲッセマネの園でユダがイエス様に接吻しようとした時です。

「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」
(マタイ26:48)

とユダはイエス様を捕縛するために集まった人々に、前もって合図をしていました。

ユダがその行為に及んだ時、イエス様が彼に語った言葉が彼に対する最後の言葉となりました。

それはどういう言葉だったでしょう?

怒りと罵りの言葉?

嘆きと絶望の言葉?

イエス様はユダにこう語られました。

「友よ、なんのためにきたのか」
(マタイ26:50)

最後の最後まで、ユダを「友」と呼び、「なんのためにきたのか」と問うことによって、裏切ることもそれをやめることもできるように考えるチャンスを与えられたのです。

これが敵に対してイエス様が示された愛です。

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イエス・キリストは、 あなたを人間として扱い、最後まで愛されるお方です。

残念ながら、ユダはこの愛の中に包まれていながら、全く感じていませんでした。

あるいは、自分から無視していたのかもしれません。

それと同様に、私たちが神様の愛を感じることもなく、また、あえて無視をしていたとしても、神の深い愛は変わらずに私たちの上に注がれています。

その愛を意識する今日の一日としたいものです。

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2016.11.26

今日のみ言葉【No.1421】(2016年11月26日) 047「裏切ることを予告さ れたユダ」(2)

イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。
(マタイ26:25)

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日本在住の外国人が「自分は日本に長く居過ぎた」と思う瞬間とは、

「電話中にお辞儀している自分に気付く時」

だそうです。

周りの日本人たちがしている行動を見ているうちに、自分もそうなってしまったのです。

自分では気づかないのに、体は自分の心を表している。

ユダもそうだったのではなかったでしょうか?

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イエス様が

「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」
(マタイ26:21)

と裏切りの予告をされた時、弟子たちは口々に

「まさか、わたしではないでしょう」

と言いました。

ユダも同じことを言った時に、イエス様は彼にこう言われました。

「いや、あなただ」
(マタイ26:25)

まさにズバリと言われた感があります。

するとユダの顔色が真っ青になり、体はブルブル震え出し、その場にいた弟子たちが全員、「裏切るのはユダだったのか!」とわかって、早速ユダを捕らえて尋問し始めた…、とはなっていません。

その後、何の異常もなく、最後の晩餐は進んでいきます。

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この個所を理解するためには、ギリシャ語原典を探らなければなりません。

ここは

「συ ειπας」(スー エイパス)

というたった2語の短い言葉で、直訳すると「あなたは言った」となります。

日本語聖書の口語訳では「いや、あなただ」、新改訳では「いや、そうだ」となっていますが、新共同訳の「それはあなたの言ったことだ」が一番原語に近い訳です。

つまり、ユダの「まさか、わたしではないでしょう」という言葉に対する「それはあなたの言ったことだ」とは、

「ほら、あなたはそう言ったでしょ」

「今あなたは言ってるじゃないか」

という感覚なのです。

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イエス様がユダを指さして、「いや、あなただ」と、皆に分かるように言ったのではありません。

裏切ろうとするユダだけに対して、彼だけが分かって他の弟子たちが気づかないような言い方で、裏切りの予告をなさったのです。

それは裁きの目的ではなく、最後の最後まで悔い改めのチャンスを与え続けるイエス・キリストの愛から出た言葉です。

誰が自分を裏切るのか知っていながら、その人を名指しで言われなかったのは、ユダを心から愛しておられた証拠です。

彼は選択の自由を与えられていました。

イエス様は最後までその自由意志を尊重され、悔い改めて神に立ち返る機会を与え続けておられたのです。

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神があなたにはっきりと語ってはくれないと思う時。

それはあなたが「こうすべきだ」とわかっている道を自分で選ぶように神が待っている時です。

「実は愛にあふれた神だったのだ」と後から味わえるように、今日の一歩を御心の方向に向けて参りましょう。

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●過去記事(バックナンバー)は全て

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に保管されていますので、いつでもご自由にお読みいただけます。

2016.11.25

今日のみ言葉【No.1420】(2016年11月25日) 047 「裏切ることを予告されたユダ」(1)

時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。
(マタイ26:14-16)

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イスカリオテのユダという人物は、「イエスを裏切った弟子」として一般的に有名ですが、非常にわかりにくい人でもあります。

サタンが介入すると、物事は途端に難解になるからです。

それとは全く対照的に、イエス・キリストの態度は一貫して明確です。

自分を裏切る者をも愛するキリストの愛と、その愛を一身に浴びながら、全く愛を感知しないユダ。

それでも彼を愛し続け、最後まであきらめずに彼の心と出会おうとされ、人格的に接したイエス様の姿がそこにはあります。

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イスカリオテのユダはイエス様を銀貨30枚で売りました。

「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」
(マタイ26:15)

という言葉は、当時、一般的な商売人が商取引をする時に使う言い回しです。また、銀貨30枚は奴隷を売買する値段でした。

つまり、ユダはキリストよりも自分を上に置いていたのです。

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救い主イエス・キリストに従うよりも、自分がイエスなる人物を操作する。

その意識は言葉の上でも表れています。

弟子たちの中に自分を裏切る者が出る、とイエス様が予告された時、ユダ以外の弟子たちは

「主よ、まさか、わたしではないでしょう」
(マタイ26:22)

と、「主」という言葉を発しましたが、ユダは「先生」という言葉を用いました。

「先生、まさか、わたしではないでしょう」
(マタイ26:25)

イエス様を神としてではなく、単なる人間のひとりとして見ていることがこの言葉遣いからうかがえます。

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ところで、ユダは欲のゆえにイエス・キリストを裏切ったというのが定説ですが、彼はイエスという人物が本当に救い主かどうか試したのだという説もあります。

救い主であるはずなのに、ローマ帝国をやっつけないで、貧しい人々を助けることしかしていないようにユダの目には映ります。

もしかしたら、窮地に落ちた時にスーパーパワーが発揮されるのではないか?

そこで彼はイエス様を祭司長たちに捕らえさせ、命の危険にさらさせ、メシヤとして覚醒させようとした、という説です。

もしかしたらそういう思いもあったのかもしれません。

しかし、それはやはり「操作」です。

自分が上に立って、神を操作しようとする愚。

人間は自分がそうしていることが分かりません。

コントロールされ、犠牲にされる者からの愛のみが、この人の目を開くのです。

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トータル・カウンセリング・スクールの授業の中に、「ほめる」という演習があります。

上からでなく下からほめる、つまり、自分を下の立場に置き、謙遜に相手を見る。

するとその方の素晴らしさが見えるので、その点を認め、賞賛するというほめ方です。

講義ではわかったつもりになっていますが、実際の演習ではなかなかそうは行かないものです。

たとえば、

「子供のこと、怒らない、怒らないと思いながら、つい怒ってしまうのよね…」

「怒りんぼママは、子どもに悪影響だよね」

と子育て中のお母さんが、ボソッと自分を責めるようなことを言ったとします。

「大丈夫。お子さん、大物になりますよ」

と、的外れなことを言ってしまうのは、その否定的状況に巻き込まれたくない、という逃げの意識の現れです。

励ませば、一応それは肯定的表現であり、無難でもあるので、自分の立場は守られます。

しかし、ほめたつもりで、実はそれは相手を上から操作しているのだ、とは気がつかないものです。

このような時に、

「そう思えるお母さんに育てられたお子さんは、どんなにおもいやりの深い人へと成長できるでしょうか」

「子供のせいにせず、お母さんが重荷を負っておられるのは本当に素晴らしいです」

とはなかなか言えないものです。

人間はわかっているようで分かっていない。

外側から愛されるということによってのみ、自分の内側を誤りを認めることができます。

変革の道を歩み出すのはそれからです。

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ユダのすべてを、イエス様はご存知でした。

自分を見下し、コントロールしようとし、最後には裏切ることを知っていて、一緒にいる。

ここにイエス様の愛を理解するための秘密があります。

あなたがどんなに人を見下し、神を見下していても、神の愛はあなたと共にあります。

そのことに目が開かれる朝でありますように…。

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