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2016.12.25

今日のみ言葉【クリスマス特別号】(2016年12月25日) 「星に導かれる」

彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
(マタイ2:9-10)

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世界中で約7000種類の言語があるそうですが、その中で最も話されている言語は何でしょう?

もちろん英語でしょうか?いいえ英語は第2位です。

1位は圧倒的数量で北京語です。中国の人口が物を言っています。

さて、人がキリストの福音を最もよく理解できるのは、普段使っている母国語で聞いた時です。

つまり、神の存在がわからなくとも、その人が使っている身近な材料を用いて、神はメッセージを伝え、導いてくださるということです。

黄金・乳香・没薬を携えてきた東方の博士たちは、彼らが最も慣れ親しんだ「星」に導かれ、救い主のもとに到達しました。

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東方の博士たちの正体は、今のイラクにいた占星術師であっただろうと言われています。

占い師という面もありますが、むしろ天文学者と言った方がよいかもしれません。

彼らにはもちろん聖書はありません。

神の言葉も、イスラエルの伝統も、アブラハムを通して与えられる祝福の約束も何も持たない博士たちは、キリスト教のバックグラウンドをほとんど持っていない日本人と同様です。

神は博士たちをキリストのもとに導くのに、彼らが最も大事なものとしていたものを用いられました。

それは「星」です。

星の動きが人間にどのような影響を及ぼすのか、科学的真実性があるのかは分かりませんが、少なくとも彼らはそう信じていました。

神は東方の博士たちが見える視野の中に星を入れ、彼らが分かる方法で幼子イエス様と出会えるようにして下さいました。

「彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。」
(マタイ2:9)

クリスマスがサンタのプレゼントとパーティーの季節となって、イエス・キリストの誕生とは無関係でいる日本人であっても、神はその人が分かる方法で神の存在を示して下さるのです。

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まず第1に、神は大自然を通して御自身の存在をわからせて下さいます。

冬の澄み切った空気の中、空にきらめく星を見、整然とした天体の運行を知る時、そこに人間を超えた大いなる存在を私たちは感じます。

2つ目には聖書を通してです。

大自然に触れて感じる神の存在は、せいぜい創造主なる神です。

もっと個人的に、人格的に私と関わって下さる神の存在は、神の言葉である聖書を通し、イエス・キリストの十字架の出来事を通して知らされます。

自然を通して神を感じるのも良いのですが、今一歩進んで、自分で聖書を読み、そこに書かれてある言葉を自分に語られた神からのメッセージとして受け止めていくことが更に良いことなのです。

聖書を読んで神の霊に触れ、そこから神の存在を信じる方々が起こされます。

しかし、聖書を読んでも、それが単なる知識として終わる人も多くいらっしゃいます。

知識が命を持った生きた知識となるためには、生きた人間との出会いが必要です。

第3番目は、神の霊を持った人との出会いです。

神の霊を持った人と言っても、特別な修行を積んだスーパーマン的な人ではありません。

イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じた人には聖霊が宿ります。

つまり、クリスチャンとなった人は全て神の霊を内に宿しているのです。

このような人との生きた人格的交流があって、なお一層神のメッセージが具体化します。

ですから、このクリスマスのシーズンは、特に人との出会いに心を配ることが必要です。

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いかがでしょうか?

神は自然を通し、聖書の言葉を通し、そして人との出会い、クリスチャンとの交流を通して神様をわからせて下さいます。

まだ神なるものがわからない人にとっても、その人なりの「星」があります。

今あるものを通して神は導かれることを信じ、東方の博士たちが長旅に向かって一歩踏み出していったように、あなたなりの一歩を踏み出す今日のクリスマスとして参りましょう。

その先には、

「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。」
(マタイ2:10)

という未来が待っているのです。

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2016.12.24

今日のみ言葉【No.1444】(2016年12月24日) 055 「クレネ人シモン」(3)

彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。
(ルカ23:26)

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クレネ人シモンはローマ兵から無理やり十字架を担わされましたが、はからずもその負い方は理想的な形になりました。

彼はイエス様の前ではなく、後ろについて歩かされました。

「彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。」
(ルカ23:26)

それはイエス様が弟子たちに命じた言葉と同じ姿になりました。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」
(マタイ16:24)

イエス様の血だらけの背中を見ながら、シモンは十字架を取り、従って行ったのです。

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シモンにとっては、邪魔、屈辱、不幸というマイナスに思える出来事でしたが、キリストとの関係で十字架を担わされたことは祝福、名誉、感謝に変えられていきました。

このような形でしたが、イエス・キリストとの出会いが与えられ、彼は後にクリスチャンとなり、教会の指導者として重要な働きをしたようです。

その一つの事実として使徒13章1節が参考になります。

「さて、アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。」
(使徒13:1)

ここにアンテオケ教会の5人の指導者の名前が書かれてあります。

その中に「ニゲルと呼ばれるシメオン」なる人物がいます。

ニゲルとはラテン語の「黒(Negero ニグロ)」を表します。つまりアフリカ出身の黒人ということです。

シメオンとはシモンのユダヤ名です。

歴史上の資料としては確定的ではありませんが、「クレネ人シモン」と「ニゲルと呼ばれるシメオン」は同一人物の可能性があります。

そうであるとすれば、はるばる1500km、北アフリカのクレネ(今のリビア東部)から真の神を礼拝しようとしてやってきたシモンは、まさにその出会いを果たし、自分が計画していた以上の人生を送ったことになります。

このように、イエス・キリストは、私たちそれぞれの人生の途上で、ご自身と出会う機会を必ず与えておられます。

ローマ兵が、たくさん群衆がいる中から、よりによってシモンに目をとめ引き出したように、神様のご計画は私たちの上に備えられています。

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脳出血で倒れられたIさんは、左半身麻痺の症状が出ましが、必死の努力でリハビリをし、職場復帰まであと一息のところまで機能が回復しました。

ところが、今まで感じなかった左手、左足に強烈な痛みを感じるようになりました。

「まさか再発…?」

すぐお医者さんに報告すると、

「それは神経が回復しているから出る痛みです。良い傾向です」

という回答が帰って来ました。

今までも痛みはあったはずなのですが、神経が失われていたのでそれを感じず、痛みを感じなかった分、リハビリがうまく進んでいたのです。

しかし今や激痛を感じます。

彼は祈りました。

「神様、どうしてですか?あと一歩なのに、あなたはなぜ止められるのですか?」

祈りの中で神様がIさんに示したことは

「このままうまく進んで元の機能が回復したら、あなたは以前の状態と同じことをしてしまうだろう」

ということでした。

彼は、この痛みは神様がつけてくださったブレーキだと悟りました。

その後、無事職場復帰を果たしたIさんは、決して無理をしません。

痛みが出るということは、どこかで自分の限界を超えたということを表し、それは自分を引き止める神様からの愛のブレーキだと受け入れたからです。

自分を謙遜にさせてくれる神からの痛み。

Iさんは謙遜に満ちた人生を送っておられます。

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イエス・キリストは、あなたに出会うチャンスを作ってくださるお方です。

それは時に痛みを伴いますが、その先にあるものは神の豊かな富を味わう人生です。

神が用意された祝福の人生を歩まれますように…。

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2016.12.22

今日のみ言葉【No.1443】(2016年12月22日) 055 「クレネ人シモン」(2)

主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。
(ローマ16:13)

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私は高校の理数科を卒業しました。

30年ぶりにクラス会に出席してわかったことは、理系の仕事をしている者はひと握りだという驚くべき事実です。

理数科なのに、国語の教師二人、美術の教師一人。理科と数学の先生になった人はいません。

試験前に遊び呆けて映画を一緒に見に行った2名の悪童は、今や寺の住職と教会の牧師(!)になっています。

未来とはわからないものです。

クレネ人シモンが自分で描く未来は、決してその通りにならず、キリストとの出会いによって、それを上回るものとなりました。

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クレネ人シモンは、自分が重い十字架を背負って死刑囚の刑場まで行く、とはその日の朝まで考えたことなどなかったでしょう。

あの日、十字架にかかる罪人の見物にさえ出かけなければ…。

目の前であの男が倒れさえしなければ…。

ローマ兵と目が合わなければ…。

いろいろな思いが頭の中を駆け巡ったことでしょう。

思いもよらない出来事が災難のように降りかかった後の彼はどうなったでしょう?

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マルコ15章21節から、シモンはアレキサンデルとルポスとの父であることがわかります。

「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。」
(マルコ15:21)

また、ローマ16章13節を読むと、アレキサンデルとルポスはローマの教会でよく知られた人のようです。

「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」
(ローマ16:13)

もう一つ、使徒パウロがシモンの妻を尊敬を込めて「私の母」と呼ぶほどの存在であることから、シモンの家族全体はキリストの福音を受け入れ、良きクリスチャンホームになったことがうかがえます。

「なんで私が?」

「どうしてこんな目に遭わなければならないのか?」

災難かと思われた「十字架を負わされた」出来事は、彼に深い影響を与え、シモンはその後クリスチャンになり、そこから一家全体が信仰を持ち、妻と息子たちが教会で重要な働きをなすようになっていきます。

十字架を背負わされたという出来事は、彼とその家族をキリストとの出会いに導きました。

「まさかそんなことが!」と思う出来事に遭遇した時、それは神様からの祝福の招待状が届いた時なのです。

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40代を過ぎると、自分がしたことではない、人がした仕事の責任を取ったり、後始末をする、ということが増えてきます。

また、自分の人生計画になかったことが起きてきます。

急に親の介護をすることになったり、住む場所を変えなければならなくなったり、夫がリストラに遭ったので内向的な奥様が苦手な接客の仕事にチャレンジしなければならなくなったり等々、様々な出来事が起きます。

全部自分に都合のいいことばかり神様が起こして下さるわけではない、と頭では分かりますが、それでも、イヤだなあ、と思うのが十字架です。

神様は、

「私の人生計画にはそんなものはありません!」

「それは私には向いていません!」

「どうしてこんなことがあるのでしょうか?」

という負いたくないものを通して、御自身と出会わせて下さるようです。

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K兄の家庭環境は劣悪でした。

父親はアルコール依存症。喧嘩と暴力が絶えない中、両親は離婚。

彼は家族と折り合いが悪く、高校卒業と同時に就職という名目で家を離れました。

その後は聖書の放蕩息子の話同様の生活で、気づいた時には父親と同じアルコール依存症になり、10年の月日が過ぎていました。

とうとう警察沙汰になることまで起こし、自分をコントロールできない状況に恐れを抱いたK兄は教会の門をたたきました。

クリスチャンになった彼は、ディボーションを始め、今までずっと伏せていた自分の本音を神の前に表し、本当の姿をさらけ出しました。

何か神様の暖かいものにつつまれた気がしました。

やがて、気がついたら、長年連れ添っていたアルコール依存症は去っていました。

神様が共にいて下さる生活へと完全に切り替わったからです。

神はこのようにして、アルコール依存症を通してK兄と出会って下さったのです。

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十字架を通してキリストに出会うことを覚える一日として参りましょう。

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2016.12.21

今日のみ言葉【No.1442】(2016年12月21日) 055 「クレネ人シモン」(1)

彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。
(マタイ27:32)

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「お遍路さん」と呼ばれ、四国88ヶ所のお寺を巡礼する修行であったものが、最近の参加者の意識には観光の要素も入って来ているように思えます。

全部回ると約1200kmの距離を歩くことになるそうです。

今日の登場人物のシモンが住んでいたクレネは北アフリカにあり、エルサレムまで約1500kmの距離にあります。

彼も自分なりの強い意志を持ち、お遍路さん同様に巡礼にやって来たのでしょう。

しかし彼はそこで思いもよらない出来事に出会い、人生が全く変わってしまいます。

それは十字架を負わされるということでした。

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イスラエル聖地旅行に行かれた方は、イエス様が十字架を負って歩まれた道(ビア・ドロローサ)をご自分の足で歩いたことでしょう。

今は各種書籍やインターネットでその様子が手に取るように分かる時代です。

当時、十字架刑は町の城門の外の処刑場で執行されました。

ゴルゴタの丘は決して美しいところではありません。

「町の外れの外れのゴミ廃棄場」というイメージを持っていただくと一番良いかと思います。

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受刑者は自分がかかる十字架の木を背負って刑場に向かいました。

鉋で綺麗に削ったツルツルの肌触りの良い木ではありません。ゴツゴツザラザラ、あちこちにトゲが残っていたはずです。

重いその木を負うのはなるべく短い時間で済ましたいところですが、刑罰を受ける人間なのですから苦しみを味わわなければなりません。

彼らは刑場まで、できる限り長い距離を歩かされ、市中引き回しにされたのです。

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イエス様はその途中、自分でその木を負って歩くことができなくなってしまわれたようです。

ローマ軍は、その占領国において、誰でもどんな仕事にも自分の用にその占領民を徴用することができました。

「おい、そこの者。お前が負え」とでも言われ、槍で肩を叩かれたら嫌でも従わなければなりません。

それがクレネ人シモンだったのです。

彼はたまたま通りかかったばかりに、これから十字架刑に処せらようとしている犯罪人の十字架を、無理矢理負わされることになってしまったのです。

彼の人生計画にはそんなことは全く書いてありませんでした。

そんな無駄なことをするためにはるばる1500キロの道のりをエルサレムまで来たのではありません。

ところが、結果として、彼が運命のいたずらとしてしょうがなく負った十字架を通して、人生が大きく変えられて行ったのでした。

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教会には、自分のせいでないことで、たまたま来て、そして救われていった人たちが沢山おられます。

お子さんの不登校、親の借金問題、相手の不倫、想定外の病気等、自分が直接悪いことをしたからこうなった、とは説明し難い問題にぶつかった人たちです。

問題解決のためにあちこちを渡り歩き、もがき抜き、そしてただ教会に来てみただけなのです。

効果がなければまた別のところへ行く予定で、ただ単に途中下車してみて、何もないよりはまだましだろう、という意識であったとしてもおかしくはありません。

問題の渦中にいれば、とにかく今すぐ自分を楽にしてくれるものを尋ね歩き、問題解決になるなら一寸でも光を求めて探しまわるものなのです。

しかし、そこに神様が待っておられ、人間の計画書に書かれてなくとも、神の永遠のご計画の中にはしっかりスケジュールされている導きだったのです。

苦しみを通して、人は多く神に近づくものです。

人生の種々の重荷は、その醜い包装紙を破いてみれば、「神へ導くガイドブック」という製品が現れるのかもしれません。

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嫌々負わされる重荷がキリストとの出会いを招くことがあります。

そこに神の配慮があると信じて、今日の歩みを進めて参りましょう。

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2016.12.20

今日のみ言葉【No.1441】(2016年12月20日) 054 「総督の兵士たち」(2)

こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。
(マタイ27:31)

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講演に行った先の学校で

「うちの学校には恥ずかしいほどのイジメの問題があります」

と先生が話し出されました。

それは、被害者の生徒が一番傷ついたのが、

「僕がイジメられている時、まわりにいる人が誰も助けてくれなかった」

「薄ら笑いを浮かべて見ているだけだった」

ということでした。

つまり、誰も「やめろ!」と言って飛び込んで助けようとする友達はなく、クラス全員が傍観者、通りすがりの立場を崩さなかったということです。

彼にとって、身体的暴力もさることながら、無視されたことが一番こたえたのです。

聞き取り調査でその事実を知った先生にとってもショックでした。

人の苦しみにどう反応するのか。

関わりを切ろうとする人間の現実に対して、聖書はどのような答を提示しているのでしょうか?

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人の苦しみや不幸を見て、心の中でそれをほくそ笑んでいる人間の罪があります。

兵士たちのことです。

聖書は、自分がその当事者になったとして読んでみると、深いところまでよくわかってきます。

そこで2つの質問です。

(1)イエス様はこのような屈辱を加える兵士たちをどのような思いで見つめておられたと思いますか?

(2)もしあなたがこの場所にいたら、イエス様にどのように反応なさいますか?

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(1)の問いは、自分をむち打ち、痛めつける相手である兵士に対してどう思うか、ということです。

私なら間違いなく報復・仕返しを考えることでしょう。

イエス様は天と地のすべての権威を父なる神様から委ねられていますので、人を地獄に落とすこともできるでしょう。

しかし、このような苦しみと屈辱に何の抵抗も示されないで、それを黙々と受けておられました。

(2)の問いなら、間違いなく私は傍観者として無反応を装うことでしょう。

イエス様を助けようとしたら、「お前はそいつの味方だな!」と見られ、兵士たちにむち打たれてしまうのを恐れるからです。

しかしイエス様は、自分とあの人とは何の関係もない、と言ったペテロに対して

「主は振りむいてペテロを見つめられた」
(ルカ22:61)

という眼差しを向けられた御方です。

イエス様は、すべてを赦し、ペテロの、そしてあなたの身代わりに罪の罰を受けて下さる御方だからです。

イエス・キリストは、あなたの罪の全てを赦しておられるのです。

ここに人生問題解決の根本があります。

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ゆるしの恵みを味わう一日として参りましょう。

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