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2017.03.31

今日のみ言葉【No.1506】(2017年 3月31日) 074「ラザロのよみがえり 」(5)

これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。
(ヨハネ11:29)

——————

外向的性格のお母さんが内向的性格の息子に朝たずねました。

「行くの?行かないの?どっち?」

息子は背中を向け、ぼんやりと空中の一点を見つめながら、

「う、う〜ん」

とつぶやいたまま動きません。

お母さんは、

「こりゃダメだわ。今日は学校に行きそうにない」

と判断して自分の事を進めます。

ところが1時間後、突然

「お母さん、弁当作って。今から学校行く」

と言い出すので、お母さんはびっくりし、

「あなた、それならそうと早く言ってくれないと!なんでさっきそう言わなかったの!」

と言いながら、手はもう冷蔵庫のドアを開け、目はお弁当の材料をどれにするかと動いています。

内向的性格の息子は、何もせずにボーッとしていたのではなく、その1時間の間、

「行くか、行かないか、行こうか、行かないでいるか…」

と、ずっと考えていたのです。

マルタの妹のマリヤはこのタイプでした。

-*-*-*-*-*-*-

姉のマルタがイエス様と話をしている間、妹のマリヤはずっと家の中にいました。

彼女は姉とは対照的に、内向的な性格であるように思われます。

このような人に見られる行動として、突然思い立って事を始める、ということがあります。

表面には出ませんが、心の中で様々なことを考えているのです。

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彼女の心の中の思いが瞬間的に行動に変わったきっかけは、姉の言葉でした。

「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」
(ヨハネ11:28)

「これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。」
(ヨハネ11:29)

周囲の人々は彼女が何を考えているのか分かりません。墓に泣きに行くのだろうと推察する程度です。

しかしマリヤが向かった先は、人生の終わりと別れを確認するための墓ではなく、命の与え主イエス・キリストのもとでした。

とは言え、彼女が復活を堅く信じていて、弟をよみがえらせていただこうとしてイエス様にお願いしに行ったのかというと、その様子はうかがえません。

マリヤは自分の思いを訴えに行ったのです。

こうしてくれ、ああしてくれ、という要求を持っていったのではなく、ただただ自分の気持をイエス様に聞いていただきたいという思いが彼女を行動に駆り立てました。

それは祈りの原点でもあります。

-*-*-*-*-*-*-

マルタは21節で、マリヤは32節で、イエス様に同じことを訴えています。

「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」

実はギリシャ語原典を見ると、姉と妹では語順が違っています(下記の【注】を参考)。

マルタの場合は「死ななかったでしょう」が強調され、マリヤの場合は「わたしの兄弟」が強調されています。

マリヤはイエス様に、姉と同じ言葉ですが、「わたしの」という部分を強調して彼女の心を訴えていたのです。

ですからイエス様は、マルタには復活のことを威厳を持って語られましたが、マリヤに対しては語りませんでした。

その代わり、

「イエスは、…、激しく感動し、また心を騒がせ」
(ヨハネ11:33)

とあるように、マリヤと同じ気持ちになって下さいました。

-*-*-*-*-*-*-

イエス・キリストは、私たちが動いている時も動かないでじっとしている時も、その心の全てを理解しておられます。

そして一緒の気持ちになってそばにいて下さる御方です。

ですから、祈りの時には、「この祈りは気に入られるだろうか」とか「どう言えば聞き入れてもらえるだろうか」などと遠慮しながら言葉を選ぶ必要はありません。

思いのありったけを注ぎ、我を忘れて語っていて良いのです。

悲しみを共にし、泣いて下さるイエス・キリストがそこにおられ、私たちの思いと全く同じ思いになっていてくださるからです。

この方の前なら安心して何もかも打ち明けて良い。

その平安をいただき、今日も祈りの時を持って参りましょう。

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11:21 ὁ ἀδελφός μου οὐκ ἂν ἐτεθνήσκει·

11:32 οὐκ ἄν ἀπέθανέ μου ὁ ἀδελφός.

2017.03.30

今日のみ言葉【No.1505】(2017年 3月30日) 074 「ラザロのよみがえり」(4)

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」
(ヨハネ11:25-26)

——————

クリスチャンだけが復活する、と思っている方はおられませんか?

それは誤解です。

聖書には、イエス・キリストを信じているいないにかかわらず、全ての人類が「一度復活せねばならない」ことが記されています。

ただし、クリスチャンの場合はイエス様が罪をすべて負って帳消しにして下さったので恵みの出来事となりますが、そうでない他の人にとっては裁きの恐ろしい場となります。

「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。」
(黙示録20:12)

「海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。」
(黙示録20:13)

私たちは復活を特殊な出来事として捉えているかもしれませんが、神の世界では至極当たり前のことなのです。

イエス様はそのことをマルタに伝えようとなさり、マルタもそれに応じました。

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23節以降で、イエス様はマルタに語られ、彼女の心を死んだ後のよみがえりへと向けておられます。

「イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟はよみがえるであろう』。 」
(ヨハネ11:23)

マルタはこの言葉に対して、

「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」
(ヨハネ11:24)

と応じ、尊敬を持ってイエス様に接し、また聖書のことをよく勉強していることを表しています。

しかし、言葉にこそしませんが、彼女の心の半分には

「何を今さら…。遅すぎます。もう弟は死んでしまって、全ては終わったのです」

という投げやりな、そしてイエス様にその自分を包んでもらいたいという思いがあったのではないか、と私は思えてなりません。

それに一切左右されることなく、イエス様は死んだ者もご自分にあって生きると宣言されました。

そして、そのようないのちにあずかるためには、「わたしを信じる」ことが必要だと語られました。

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」
(ヨハネ11:25-26)

この圧倒的存在感に、マルタの心のモヤモヤした部分は吹っ飛んでしまったようです。

「マルタはイエスに言った、『主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております』。」
(ヨハネ11:27)

イエス様を信じる者は、肉体的にずっと死なないで生き続けるというのではありません。

地上でイエス・キリストを信じる人の人生は、いのちの源である神様につながっているので、いつも生き生きとし、死という制限にもはや怯えることもなく、支配されることもない人生を歩むことができるのです。

マルタの心の中にあった、死という制限の垣根が取り払われました。

そこにおいて、彼女はラザロの死を受け入れることができたのだと思われます。

弟は死んでいて、もう会えない。いつになるか、あるのかもわからないよみがえりの時にまた会えるということをせめてもの慰めとして生きていこう、という彼女の以前の思いは消えてしまいました。

この世の人生と、肉体の死と、復活の時とが一直線につながったのです。

そしてこの後、彼女はラザロの復活の出来事を見るのです。

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イエス・キリストは、死後はもちろん、生きている今もいのちを与えられるお方です。

「自分は死んでいるなあ」と思うあなたこそ、今日、イエス様に命を与えていただきましょう。

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2017.03.29

今日のみ言葉【No.1504】(2017年 3月29日) 074 「ラザロのよみがえり」(3)

マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。
(ヨハネ11:21)

——————

今はセレモニーホールで葬儀をすることがほとんどになりましたが、昔は自宅でお通夜をし、お寺で葬儀をすることが一般的でした。

するとそこに必ず葬儀全般を「仕切る」方が現れます。かつては親戚の年配の男性の方と決まっていたものです。

その人が、お寺や花屋さん、そして料理関係の交渉事等を一手に引き受け、遺族の了承を取りながら手配していかれます。

そうでないと、事が進んでいかないのです。

遺族は、受け入れがたい現実を前にして悲しみに打ちひしがれています。また、初めてのことでどうしていいかわからないことが多くあります。

仕切り役の人が敷いてくれたレールの上を歩いて行くだけで精一杯。

悲しみに沈んでいる家族と、粛々と葬儀を進めていく親戚の方。

私は葬儀の度毎にこの明快なコントラストを見てきました。

弟ラザロの死により、マルタとマリヤの姉妹の反応も、このような対照的なものとなりました。

-*-*-*-*-*-*-

イエス様一行が到着したとき、ラザロはすでに死んで墓の中でした。

姉のマルタは妹のマリヤに比べると積極的・行動的であり、弟の死のかなりの部分を受け入れていたように見えます。

それは、

「イエスはまだ村に、はいってこられず」
(ヨハネ11:30)

とあるように、まだ村はずれにいるイエス様のところまで迎えに行ったことからうかがい知れます。

「弟は帰ってこない。悲しみに沈んでいてもどうしようもない。今わたしにできることは何か?そうだ、イエス様を迎えに行こう」

というような考えで自分を奮い立たせたのでしょう。

姉のマルタは自分の感情を抑えて事を進める役割を果たそうとしています。

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そうは言っても、やはりイエス様に会うと、抑えていた気持ちが出てしまいます。

マルタがイエス様に向けて言った言葉は、

「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。」
(ヨハネ11:21)

です。これは、

「イエス様、遅いです。なんで間に合わなかったんですか?あなたが来られなかったから、弟は死んでしまいました!」

という叫びを内包しているように感じられます。

実は全く同じ言葉を妹マリヤも語っているのですが、彼女はイエス様の足もとにひれ伏しています。

「マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう』。」
(ヨハネ11:32)

少なくとも、姉のマルタはイエス様を迎えた時、ひれ伏してはいなかったことがわかります。

私の想像ですが、彼女は突っ立っていたのではないかと思います。

それは無意識に現れた、イエス様に対する批判と叱責の態度です。

表面は冷静客観的態度を装っていながら、実はマリヤと同じ悲しみに沈んでいるマルタの姿。

その悲しみと怒りをイエス様にぶつけざるを得なかったのでしょう。

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イエス様はマルタのそのままを何もなさいません。

やり返すことも弁解することも説明することもなさらず、そっくりそのまま受け入れておられます。

それは、全人類の罪の責任を十字架の上で引き受ける、と既にイエス様の心の中で決められていたからです。

そして十字架の死の先の復活を信じておられ、神の御業を知っておられたので、

「あなたの兄弟はよみがえるであろう」
(ヨハネ11:23)

と告げられたのです。

ここに全てを包み込むイエス・キリストの愛があります。

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あなたが何をぶつけようと、キリストのあなたに対する愛は変わりません。

愛しか返ってこないのだ、と信じる今日の日として参りましょう。

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2017.03.28

今日のみ言葉【No.1503】(2017年 3月28日) 074 「ラザロのよみがえり」(2)

それから弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。
(ヨハネ11:7)

——————

私の学生時代、下宿に医学部6年生の医師の卵がおられました。

部屋にはぎっしり医学書が並べられてあり、私は興味本位で

「本当に勉強しているのかな?」

とパラパラとめくってみました。

すると、全ページに蛍光マーカーや赤線が引いてありました。

「まさか!」

と思って手に取ってみた本全てがそうでした。その先輩は全部本当に読んでいたのです。

それ以来、私は医者に対する意識が変わりました。

「この方々はプロなんだ」

ですから、自分ではそうは思わない、感じない、まだ治っていないという状況でも、お医者さんが

「歩きましょう」「薬は続けましょう」「毎年検査しましょう」

と言われたら、「はい」と従うことにしています。

もちろんその際に十分な説明を受け、自分の考えも述べ、相談した上でのことですが、医師を尊敬することを基本的態度とし、指示に従います。

それでどれだけ得をしたか分かりません。

プロの診断は正確なのです。

イエス様も、いわば霊の世界のプロフェッショナルです。

ですから、人間の思いや感情と反することを要求されることがあります。

ヨハネ11章の最初の部分で、使いの者や弟子たちがそのことを体験しました。

-*-*-*-*-*-*-

使いの者が2日間の戸惑いの期間を過ごした後、次は弟子たちが戸惑う番となりました。

イエス様が弟子たちに

「もう一度ユダヤに行こう」
(ヨハネ11:7)

と言われたことによって、彼らの心に波乱が起きました。

ユダヤに戻れば、つい最近味わった命の危険にまたさらされるのではないかと恐れたのです。

「そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。」
(ヨハネ10:31)

神の時を知るイエス様は、まだその時でないことをご存知でしたので、自分は捕らえられないという確信を持っておられました。

「そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。」
(ヨハネ10:39)

しかし弟子たちにはそんなことは分かりませんから、「神の御手に守られ、悠々と去ってきた」などというものではなく、「命からがら、ようやく難を逃れた」という印象しかなかったでしょう。

そこにまた戻れ、とイエス様は言うのです。

ここに、神の御心とその力とを知るイエス様と、霊的なことが全くわからない弟子たちとの圧倒的な差があります。

-*-*-*-*-*-*-

ヨハネ11章のラザロのよみがえりの記事で私たちが出会うイエス・キリストは、理解できない行動をされる方です。

つまり、愛しているならどうしてこんなことをするの、ということをなさる御方だということです。

使いの者に関しては、

「なぜ愛するラザロが病気であると知っていながら、すぐ行かず、2日もとどまっていたのか?」

弟子たちに関しては、

「なぜ殺されるかもしれない所にまた行き、自分たちをもその危険に巻き込もうとするのか?」

しかしそれは私たちが神様から愛されていないということではなく、神は本当に私たちを愛しておられるので、事態をどんどん悪くなさるということなのです。

それが私たちに対する愛だとは、その時はわからないものです。

神の愛がわかり、イエス・キリストと出会っていたのだとわかるまでには、時間と経験が必要です。

その時まで神様は忍耐強く、あなたを待っておられるのです。

-*-*-*-*-*-*-

息子が学校に行くと言っては「疲れた」と言って休むので、何とかならないかという相談を受けたことがあります。

お母さんのお話を聞くと、既に様々な専門家の方々のご意見をもらっているのがわかりました。

心療内科の医師からは、子供向けのアドバイスではなく、お母さん向けに

「あなたが子どもに手をかけ過ぎているので、お子さんは困っていません。困らせて下さい。そこからスタートです」

と言われました。さらに

「あなたは息子さんにご自分の姿を投影しておられます」

とまで言われたのですが、お母さんは

「学校に行かなくなって昼夜逆転の生活をしたら誰が面倒見るのよ!」

という思いで心がいっぱいになり、医師のアドバイスが全く入りません。

私はひとしきり話を聞かせていただいた後、タイミングを見計らって、「投影」ということを説明させてもらいました。

それは映画のように、息子がスクリーンとなって、母親であるあなたが自分の姿を投影して見ているのだということ。

息子を見ていると思っているが、実は息子の姿ではなく、自分の姿を見ているのだということ。

自分を受け入れておらず、むしろ責めているので、同じことをやっている息子を責めたくなるのだ、ということ。

そこで私は、

「お母さん、ご自分も息子さんと同じで、疲れてはやめ、疲れてはやめを繰り返す人生ではなかったですか?そして、こんなことではいけないと自分にむち打って、ようやく世間の基準を満たしている状態なのではないですか?」

という質問を向けてみたところ、

「そう言えば、その通りです。私は若い頃から何度も職を変えました。頑張って良い評価を得るのですが、不思議と続かなくてやめてしまい、また次の職場で頑張って…、を繰り返していました」

と感慨深げに話し始められました。お母さんは

「その自分ではダメだ、と思ってきたのですが、それを息子に見ているから気になってしょうがなくて、どうしても手放せなかったのですね」

と深いところまでお気づきになったようです。

私は

「お医者さんは正しいことを言っておられました。ご自分では『この医者、何もわかってない』とお思いになったかもしれませんが、その先生のおっしゃる通り、息子さんから手を放すことが鍵のようです。」

「しかしそうできないのは、自分を受け入れていないからで、ご自分を受け入れるようにし、責めないようにし、ゆるしてあげる修練をこれから毎日施していったら、息子さんのことなど全く気にならない日がやって来ますよ」

と言って、その日のカウンセリングを終わりました。

愛の中にいて、最も有効な言葉を聞いていても、人はそれに従うことに難しさを感じることがよくあります。

そこをポンと乗り越えていくポイントは、言った方を信頼する関係があるかどうかです。

お母さんと医師との信頼関係が復活した今は、スッキリした良き方向に向かっておられます。

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神の愛は、時に私たちの理解をはるかに超えています。

わからなくても信頼して歩んでいこうとする一歩を、今日、踏み出して参りましょう。

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2017.03.27

今日のみ言葉【No.1502】(2017年 3月27日) 074 「ラザロのよみがえり」(1)

「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」
(ヨハネ11:4)

——————

私の近所にスターバックスがあります。

家内はファンで、よくお友達と一緒に行くのですが、私はあの雰囲気には馴染めません。

スターバックスによく行く方には申し訳ないのですが、人それぞれ好みが違うものです。

私が一番リラックスできる場所は整体院です。

マッサージをしてもらい、とりとめのない話を交わしている時が一番くつろげる時です。

イエス様がリラックスし、英気を養える場所は、マルタ・マリヤ姉妹とその弟のラザロがいるベタニヤでした。

ヨハネ11章はそのラザロが重い病気にかかったことから始まっています。

-*-*-*-*-*-*-

イエス様と弟子の一行は、エルサレムの都に上られたとき、エルサレムから3kmほどの所にあるベタニヤという村のラザロの家によく滞在されました。

イエス様はこの家族と大変親密な交わりを持っておられました。

そのラザロが危篤となり、ラザロの姉妹、マルタとマリヤはイエス様に来て欲しくて使いを出しました。

弟のラザロを癒してもらいたかったからです。また彼女らは、イエス様がそうできる方であると信じていました。

しかし、ちょうどその時、イエス様はユダヤ人たちの迫害の手から逃れて、ヨルダン川の向こう岸にいらっしゃいました。

「そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた。」
(ヨハネ10:39-40)

そこからベタニヤまで歩いて1日の道のりです。

この後の聖書の部分から推測すると、使いを出してからまもなく、ラザロは息を引き取ったようです。

そんなことなど使いの者は知る由もありません。

彼は

「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」
(ヨハネ11:3)

と言って、急いでイエス様を連れて帰ろうとするだけです。

「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」
(ヨハネ11:5)

とあります。

ならばすぐベタニヤに駆けつけようとするはずです。

ところが、

「ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。」
(ヨハネ11:6)

とあるように、イエス様はそうなさいませんでした。

愛しているはずなのに駆けつけようとしない。

矛盾です。

愛しているとは口先だけのことで、本当は愛していなかったのか?

あきらめられてしまったのか?

使いの者は、ジリジリとした思いで過ごしていたことでしょう。

-*-*-*-*-*-*-

ここが信仰上の、「痒いところに手が届かない」「スッキリと事が運ばない」と感じるところです。

癒やしや救いを進めることは神の御心のはずなのに、肝心の神様ご自身が動いてくれないと思う時があります。

使いの者は1分1秒を惜しんでイエス様の所に来たはずです。

ところがイエス様は2日間動こうとしません。

その理由を、

「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」
(ヨハネ11:4)

と語っておられますが、使いの者の内心は、

「そんなはずはない。重症なんですよ。危篤なんですよ。だからわざわざ私が来たんじゃないですか」

というものだったのではないでしょうか。

彼が時間を惜しんでやってきた努力は無駄になりました。

一生懸命神様のためにやって来たことが、全部神様の手で無駄にされた、と思う時があるものです。

-*-*-*-*-*-*-

人間にはわからない神のご計画というものがあるのです。

神はラザロの病を癒すことでも栄光を現すことができましたが、ここでは死からよみがえらせることで神の偉大な力を現そうとなされたのです。

ラザロは放っておかれたように見えます。

そして死にました。

イエス様は間に合いませんでした。

全ては終わったように思えます。

誰も死に打ち勝つことはできません。

しかし、墓に葬られて4日もたち、死臭がするほど完全に終わりが明確になった時に、イエス様は来られ、死に打ち勝ち、死を滅ぼされた主であることを明確に表されました。

もうこれからはイエス様を信じる者は死の恐怖におびえる必要はありません。

人々を死の恐怖から解放するために、イエス様はラザロのよみがえりの奇跡をなされたのです。

この神のご計画を全うするために、私たちは戸惑いの2日間を過ごさなければなりません。

その時間をやり過ごすためには、

「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」
(ヨハネ11:4)

との神の約束を信じ、すがりつくのみです。

-*-*-*-*-*-*-

わからない時には、神の約束を確かめ、静かに過ごしていましょう。

その間に、神のご計画は着々と進行しているのです。

春になってチューリップの芽が出るのは、それ以前の季節に地中で準備がなされていたからです。

神の働きに信頼し、ゆだねる一日として参りましょう。

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