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2018.04.28

今日のみ言葉【No.1742】(2018年 4月28日)「 神の祝福を受けるための訓練(8)」

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
(ローマ8:5)

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2018年のボストン・マラソンで優勝した川内優輝選手は食事制限をしないのだそうです。

食事管理を細かくやるとかえってストレスを感じ、調子を落とすのでやめたのです。

デカ盛りラーメンをガーッと食べて、その分のエネルギーをガーッと走ることで消費して走力をつけるのが彼に一番合ったやり方でした。

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「嫌だなあ」と思うことを避け、「これはいいなあ」と思うものを追求して生きると、健康でいられます。

ストレスを感じないからです。

ところが、現実はやはりそうは行きません。

嫌いでも食べなければいけない食物があり、嫌いな人でも挨拶ぐらいはしておかないといけません。

そのあたりを第一歩として嫌なことに強制的にでも従っていると、やがて自分と同じように嫌なことに従って黙々と生きている人たちの姿が目に入ってきます。

「ああ、あの方も自分を従わせて生きておられるのだなあ」

「不本意ながら、お役目としてやっているのだなあ」

不思議なことですが、今まで意識もしなかった人たちが視界に入ってきます。

しかもその方々は神を信じているいないに関係しません。

クリスチャンだから素直に従い、ノンクリスチャンだから従っていないなどという考えは極端に非現実的考え方です。

進んで従っているか、嫌々か、動機はどうあれ、この社会は実に多くの「文句を言わずに嫌なことでも従って生きている人々」のおかげで成り立っています。

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自分がその一員になって初めて同じ視線でものを見ることができるようになります。

そうすると、自分が今まで愛を施してきた、伝道してきたと思っていたことが、実はその方々の下支えによって成されていたのであって、何と自分は多くのわがままを通させてもらってきたかということが見えてきて恥ずかしくなるほどです。

ですから、牧師・伝道者となる人はこの点において打ちたたかれなければならないのです。

伝道してやっている、愛してあげている、などと思っていたら論外です。

「キリストの愛の実践、御言葉の真理の伝道、具体的支援等のことをしていると思っていたが、実はそれは自分のやりたいことをやっていただけであって、そのわがままが果たせるように黙々と従っていた方々がおられたゆえに出来たことなのだ」

と思えるようになった時点で、ようやく一般の人と同じスタートラインについたようなものです。

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教会の指導者を目指す人は、「キリストのしもべ」という化けの皮が剥がされて、「傲慢で野心満々の私」という自分の本当の姿を知らなければなりません。

そしてその傲慢を、周囲の人々や教会員に気づかれる前に直そうなどとしてはいけません。

皆すでに知っていて知らないふりをしているだけなのですから、それこそ恥の上塗りになります。

その「傲慢で野心満々の私」「神から最も遠い私」が神から愛されている、という恵みを発見し、その恵みに浸るのです。

赦されるはずのない私が赦されている、最も愛のない私が神から愛されている、という恵みこそが、人々にキリストを伝える伝道のエネルギーとなるからです。

嫌なことに従うと傲慢な自分が見えてくるという意外な祝福は、あなたを更に素晴らしいキリスト者へと変えていきます。

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嫌でも従ってみるというチャレンジを試みる今日でありますように…。

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2018.04.27

今日のみ言葉【No.1741】(2018年 4月27日)「 御霊に追いやられる時」

それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。
(マルコ1:12)

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バプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、イエス様は荒野に行きました。

マタイはこれを

「悪魔に試みられるためである」
(マタイ4:1)

と書いています。

神のご計画の一つだったのです。

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神の御心に従うことは常に快適なことであるとは限りません。

よく、御心の通りに行えば、高速道路を一直線で走るような人生を送れると考える人がおられます。

そういう場合もありますが、御心を選んだがゆえにかえってガタボコ道を苦労して運転し、時間がかかるということもあります。

神の御心に従ったら、ご褒美として自分が喜べる都合のよい事態が起こるというわけではないのです。

御心を選んだがゆえに、相も変わらず今までどおりの苦労が続くことなど日常茶飯事でよくあることです。

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アブラハムが甥のロトと別れる時にこのことを味わいました。

彼はあえてロトに土地を選ばせたところ、

「ロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った」
(創世記13:11)

とあります。なぜならそこは

「主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた」
(創世記13:10)

からです。

アブラハムは牧草豊かな緑の低地ではなく、今までどおりに草を求めて歩かなければならない生活を続けることとなりました。

しかし、ヨルダンの低地には、後に神によって滅ぼされる堕落した町、ソドムとゴモラがありました。

もしアブラハムが自分の利益のみを考え、自分を喜ばせるだけの選択をしていたら、彼は破滅の危機にあったのです。

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マルコによる福音書では

「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった」
(マルコ1:12)

とあります。

これは、イエス様が自分の計画で荒野に行ったのではなく、なぜか荒野に進まざるを得ない状況に追い込まれたということです。

それを聖書は「御霊がイエスを荒野に追いやった」という書き方で表しています。

神を信じる時、どうしてもそうせざるを得ない思いに駆られて物事を成す場合があります。

それはどう考えても自分の利益になるとは思えないことです。

自分としては喜べないのに、なぜかそちらに導かれる強い力を感じる時は、よく吟味しなければなりません。

もしかしたら自分は精神的病気なのかもしれませんし、他者からのマインドコントロールにかかっているのかもしれません。

しかし、ある程度祈り考えても導きを感じる時は、

「聖霊が私に命じておられるのだ」

と決断し、覚悟してこれに当たるのです。

選択して実行した結果がどうなったとしても、行ったのは自分だからその責任は自分が取る、ということです。

その先が花園ではなく荒野であっても歩き抜く覚悟を持って行く時、神の御心が明らかにされていきます。

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私はメッセージをしている最中にこの聖霊の導きを感じることがあります。

用意していないことを語れと聖霊から示されることがあるのです。

話しながらのほんの数秒間の間ですが、

「これは神の語りかけか、あるいは単なる私の思いつきか、好感度アップを狙う自己顕示欲の現れか…」

「聖霊様、これを言っても大丈夫なのでしょうか」

などと自分自身に対する吟味と聖霊との押し問答を繰り返します。

そして聖霊に負けて、観念して、「言いなさい」と言われる言葉を口に出します。

表面上は何もないように見えるでしょうが、心の中ではかなりの葛藤をした挙句、出る言葉なのです。

その結果は、わかる時もありますし、わからない時もあります。

お叱りは受けたくないのでなるべく配慮して語ったつもりでいますが、気にさわる方が出たらお詫びする他ありません。

「今日は神が先生を通して語ってくださった」と感謝される時もありますし、誰も何も言わずに過ぎ去ることもあります。

御霊に追いやられる時は、葛藤してでもいいですから、それに従うことをおすすめします。

そこに信仰の成長という神の恵みが用意されているからです。

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聖霊の導きに敏感になる今日からの歩みとして参りましょう。

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2018.04.26

今日のみ言葉【No.1740】(2018年 4月26日)「 放蕩息子のたとえ話(4)」

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
(ルカ15:20)

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『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(光文社)というタイトルで160万部を売った公認会計士の山田真哉さんは、受け取った印税が5千万円だったそうです。

最近、その全額をFX取引で失ったと明かしています。

よそ様の出来事なので「へー、そうなんだ」くらいで終わるかもしれません。

さて、もしあなたが子供から「生前贈与してくれ」と言われて分けてあげ、それが短期間のうちにスッカラカンに使い果たされ、助けてくださいと頼って来られたとしたらどうでしょう?

何か一言、言いたくなっても当然です。

放蕩息子のたとえ話に出てくる父親はどういう反応を示したでしょう?

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人生に行き詰まった弟息子は父のもとに帰る決心をします。

「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたい」と思うほど「飢えて死のうとしている」彼でしたので、体力も思考力も低下しています。

考えることはただひとつ、お父さんに頭を下げてゆるしてもらおう、ということだけです。

風呂に入って身体をきれいにしてからとか、服を清潔なものに変えて好印象を持ってもらうようにとかの考えは一切なく、おそらく豚の臭いをプンプンさせたままの着の身着のままの格好でヨロヨロと歩いてきたでしょう。

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その息子に対して父はどういう態度を取ったでしょう?

玄関に入ってきた異様な風体の男を見てびっくりし、ようやく息子と認めた…、のではありません。

聖書には

「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ」
(ルカ15:20)

とあります。

つまり、今日帰ってくるか明日帰ってくるかと毎日彼を待っていたのです。

しかし、近づいてくるにつれて感じられるのは、鼻に来る強烈な臭いとみすぼらしい服です。

「まず風呂に入って来なさい。着替えは用意する。話はそれから聞くことにしよう」

などとは言いませんでした。

お父さんは自分の方から

「哀れに思って走り寄り」
(ルカ15:20)

汚れと臭いにまみれた弟息子そのものそっくりを受け入れ、

「その首をだいて接吻した」
(ルカ15:20)

のです。

「帰って来た!我が息子が帰って来た!」と叫ぶ父の姿が目に浮かびます。

これが罪ある人間が悔い改めて帰ってくるの待つ父なる神の姿です。

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人間は自由意志を濫用し、勝手気ままに行動します。

神はそれを許されます。

人間は資源を使い尽くし、生物を絶滅させ、神の財産を浪費してきました。

神はそれをも許されます。

しかし神は人間が神のもとに帰ってくるのを絶えず待っておられるのです。

これが聖書が明らかにする神と人間との関係です。

今あるがままの姿で神に帰ってくること。

これこそ神が望んでおられることです。 

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そのままの姿で神に立ち返る今日として参りましょう。

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2018.04.25

今日のみ言葉【No.1739】(2018年 4月25日)「 神の祝福を受けるための訓練(7)」

「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。」
(サムエル記上15:22)

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世にはたくさんの「やる気を出す方法」があります。

・できるところから少しずつやる
・自分に気合を入れて叫ぶ
・やる気が出ない自分を「そのままでいいのだ」と受け入れる

メル・ロビンスという人は

「5,4,3,2,1,GO!」

と言って始めると、やる気がない時でも始められると説いています。

人間は5秒以上考えると「それは危ない」とか「失敗した時大変だ」と命を守ろうとする部分の脳が働き出すのだそうです。

ですから、数えることによって5秒間その脳を停止させると、うまく行動に移れるのです。

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祝福の秘訣である「従う」ということも反射的に出るまで訓練すれば本物です。

考えなくてもやっていたというところまで訓練できたら第1段階終了です。

そして第2段階は、嫌なことに従う、ということです。

ただしこれはあくまでも「キリストに従って行きたい」と願う人向けの内容です。

「考えずに従え、嫌でも従え」では、教会はブラック企業になってしまいます。

甲子園に行きたい野球部の選手は自ら厳しい環境に自分を置いて訓練します。

野菜が嫌いでも自分の身体のためなら目をつぶり鼻をつまんでバリバリ食べて飲み込みます。

それと同じで、クリスチャンとして成長し、神の器として用いられ、多くの人々の祝福の基となっていきたいと願う人は、

「嫌だなあ」

と思うことがあっても、自分を従わせるのです。

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嫌なことに従うと次の3つの祝福が待っています。

(1)傲慢な自分が見えてきます

(2)あなたが真のあなたとなります

(3)キリストに似た者へと成長します

以下、次回へ続きます。

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従う訓練を続けて参りましょう。

神様からしか得られない祝福がそこにあります。

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2018.04.24

今日のみ言葉【No.1738】(2018年 4月24日)「 キリストの人格に触れる(2)」

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」
(マルコ1:11)

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キリスト教二千年の歴史は膨大な聖書研究の成果を残しています。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」
(マルコ1:11)

とは、次の旧約聖書の2箇所の言葉から出ていることがわかっています。

「おまえはわたしの子だ」
(詩篇2:7)

これは王の戴冠式の時に読まれる言葉です。

そして

「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ」
(イザヤ42:1)

です。

神のひとり子として、かつ、神の目的を成就する者としての2つの意味が重ねられています。

つまり、イエス・キリストは人間であり、かつ、神の本質と全く等しい存在なのだということです。

この意味で「イエス・キリストは神の子」と言えるのです。

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難しいことはさておいて、現実の世界に生きる私たちにとって、この御言葉はどう関係してくるのでしょうか。

それは、神の子イエスが罪人と同じ立場に立たれたということです。

救いというのは、同じ立場にいながら、しかも能力がそれ以上の者によって成すことができます。

借金のある人が他の人の借金を肩代わりして払ってあげることができないように、罪ある人間が同じ罪ある人間の身代わりになったり、その罪を負って無罪にしてやることはできません。

人間が人間を救うことはできないのです。

しかし、無借金で裕福な人なら他者の借金を払い、完済させることができます。

罪なき人なら誰かの罪を負うことができます。

その人がイエス・キリストなのです。

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100%神であり、100%人であるイエス・キリストの存在に触れ、今日も新たな一日を歩んで参りましょう。

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