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2018.06.30

今日のみ言葉【No.1790】(2018年 6月30日)「 神の祝福を受けるための訓練『続ける』(3)」

ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。
(ルカ2:34)

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こういう人がいます。

貧しい家に生まれ、9歳の時に母を亡くし、若くして始めた雑貨ビジネスは22歳の時に倒産。

恋人は病死し、自分も数ヶ月鬱状態になる。

政治家を志し、計8回の落選の後、とうとうその国の大統領となりました。

そうです、アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンです。

倒れてもまた立ち上がる彼の人生は、後世の人々に勇気を与え続けています。

失敗し、停止しても、また立ち上がって何度でも始めていくこと。

これが真の継続です。

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クリスチャンの信仰成長のための訓練として「継続」ということを取り上げてきましたが、継続とはずっと続けていくことではありません。

誰でも最初は、ずっと続けていくつもりで始めることでしょう。

簡単なことは続けられますが、難易度が高くなるにつれて継続は難しくなってきます。

そして、

「ずっと続けていきたいが、これ以上は無理だ」

という限界に達します。

しかし、そこでやめる人は稀です。

ほとんどすべての人は、その限界を乗り越えようとし、事実、乗り越えられます。

これは本当です。頑張れば大抵のことはやれてしまうのです。

ただしこの所で

「今回、神様は私ができる以上のことを成して下さった。神を賛美します」

と神に栄光を帰し、自分の限界をこれから徐々に伸ばそうとするのか、

「やった!工夫次第で何でもできる。私の体力も知力も無限だ!」

と、神抜きで自分の可能性に酔いしれるかでその後の展開は違ってきます。

両方とも次の限界、そのまた次の限界に出会い、どこかで断念せざるを得ない時を迎えます。

前者は早めに撤退できます。

飛行機にたとえれば、離陸直後に異常に気づき、元の空港に戻って無事着陸するようなものです。

そして、エネルギーをためて、もう一度チャレンジできる機会をうかがいます。

後者は頑張り過ぎるほど頑張っている自分を知りません。

「何かおかしい」

と気づきながらも異常音を無視して飛び続けるので、エンジンが緊急停止した後は、良くて胴体着陸。悪ければ墜落です。

そして

「もう二度と飛ばない」

と堅く決意し、死んだ状態のまま残りの人生を過ごす人もいらっしゃいます。

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真の継続は、やめた後にまた始めることです。

その次やめた後も、またその後にやり直すことです。

クリスチャンの訓練でのポイントは、その際に必ずイエス・キリストの助けを求めることです。

なぜなら、立ち上がらせてくださるのはイエス様だからだと聖書は言うからです。

「この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりする」
(ルカ2:34)

ここで使われている「立ちあがる」という語は、ギリシャ語原典では「アナスタシス」という言葉が使われています。

これは「復活」という意味でもあります。

死から復活したキリストだからこそ、死んだ状態になっているあなたでも、もう一度よみがえらせ、また始めさせる力を持っておられるのです。

この方が伸ばした手によりすがり、もう一度立たせていただく。

これが本当の継続です。

それこそが「させていただいている」ということであり、そうやってあなたが生きた背後の道には、謙遜の花々が咲き誇るようになるのです。

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キリストの力により復活の人生を歩む。

神の力によって生きることを続ける人生を送って参りましょう。

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2018.06.29

今日のみ言葉【No.1789】(2018年 6月29日)「 手を伸ばす」

「手を伸ばしなさい」
(マルコ2:5)

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サッカー・ワールドカップロシア大会で日本が決勝トーナメントに進み、世界の16強に入りました。

大会直前に監督が交代し、ある名物評論家からは

「1次リーグを突破する確率は奇跡でも起きない限り1%〜2%」

と言われていたのですから、その言葉に従えばこれは奇跡です。

奇跡が今でもあるとするなら、聖書にも当然奇跡はあります。

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マルコによる福音書第3章の冒頭に、片手の不自由な人がイエス・キリストによって癒される奇跡が記されています。

病気や怪我、身体の障害等で不自由さがあると、人の意識はそちらの方に集中します。

ですから、この人は自分とイエス様しか意識しなかったことでしょう。

実際は周囲にいろいろな人たちの強烈な思いが渦巻いていました。

・あの人は安息日に癒されるだろうかと伺う人たち

・イエス様を訴えようとする思い

・安息日に奇跡を行ったゆえにイエス様を殺そうと相談する人たち

こんな状況が目に入っていたら、「片手のなえたその人」は気持ちも萎縮してしまって、イエス様の言葉に応答することもできなかったかも知れません。

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しかし、癒しの実際は実に単純です。

イエス様が

「手を伸ばしなさい」
(マルコ2:5)

と言われ、その人が

「そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった」
(マルコ2:5)

とあります。

奇跡はあっけなく、日常茶飯事の一部のようにして起こるのです。

他のことは一切気にせず、治らなかったらどうしようなどということを考えもせず、ただ言われた通りに行うこと。

これこそが信仰を実践に移すことであり、神の御言葉に対する正しい態度です。

たとえ今は結果が見えず、どのようなことが起こるのか理解できなくても、イエス・キリストの言葉を信頼し、従順に言われた通りに行ってみると、結果はただひとつ、奇跡のみ…、ではありません。

確かに奇跡を体験することもあるでしょう。

癒しを例に取れば、マルコ3章に出てくる人のように、手が元通りになるという奇跡です。

また、放っておいて自然に任せ、私たちの体に備わっている自然治癒力によっていつの間にか癒されている、という場合があります。

さらに、医薬の力や本人の努力で機能が回復するということもあります。

全く何も変わらないという場合もあります。

しかし、結果を神にゆだねていく希望がクリスチャンには与えられています。

神はこう約束しておられるからです。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」
(ローマ8:28)

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先日、48年の生涯を閉じたクリスチャンのお葬式がありました。

元気だった息子さんが、目の病気で視力を失い、さらに体中に腫瘍が転移し、様々な治療のかいもなくやせ細ってしまいました。

クリスチャンの彼は最後まで命を燃やし続け、無理をしてではなく、周囲に明るさを振りまいていました。

それは彼が復活の命を信じていたからです。

いよいよ最期の時、彼はお母さんに

「僕は死なないよ」

と言い、お母さんの手のほうが暖かかったはずなのに、彼は

「お母さんの手を暖めてあげる」

と言って、血の気が失せ、冷たくなった手で、そっとお母さんの手を握りしめました。

そのまま彼は天に召されました。

癒しの奇跡は起きませんでしたが、それ以上の奇跡を周りに彼は残していったのではないでしょうか。

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御言葉に従い、手を伸ばす今日として参りましょう。

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2018.06.28

今日のみ言葉【No.1788】(2018年 6月28日)「 キリスト教の神(4)」

神みずからが義となり(ローマ3:26)
神は愛である(第1ヨハネ4:8)

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「矛盾(むじゅん)」という言葉があります。

昔中国で、「どんな盾(たて)も突き通す矛(ほこ)」と「どんな矛(ほこ)も防ぐ盾(たて)」を売っていた男がいました。

すると客の一人が

「では、その矛でその盾を突いたらどうなるのか」

と問われて答えに窮したという故事から出た言葉です。

聖書の中には愛と義の矛盾というものがあります。

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神は義であり、と同時に愛の御方です。

義は縦のラインのイメージで、裁判官が被告に判決を言い渡すイメージです。

愛は横のラインで、相手が自分と同じ位置にいてくれるイメージです。

この縦と横が交差して十字架となります。

罪を決してゆるさない義と、罪ある者をゆるそうとする愛は対立します。

しかしそれは十字架によって解決されるのです。

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聖書は全ての人は神の前で罪人だと言っています。

「義人はいない、ひとりもいない」
(ローマ3:10)

交通違反をしたら反則金を納めなければならないように、罪はその代価を支払って初めて消えるものです。

聖書はそれは命でもって償われるのだと言います。

「罪の支払う報酬は死である」
(ローマ6:23)

従って、人はその罪のために自分の命を差し出さなければなりません。

全人類が死に縛られているとはこういうことです。

しかし、神は愛の方なので、誰一人滅びることを望まず、その罪をゆるそうとされます。

しかしそれでは神の義が立ちません。

一方で神の義を全うしようとすると愛が立たず、愛を貫こうとすると義が立ちません。

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この矛盾を解決されたのがイエス・キリストです。

人は自分一人のためにしか命を支払うことができませんが、イエス・キリストは神の子なので、その命の犠牲は全人類の罪の償いとして十分認められます。

これで神の義が立ちます。

と同時に、キリストが十字架で人間の代わりに罪の代価をご自身の命で支払って下さったことにより、人間の罪は神の前で全く消されてしまいました。

これで神の愛が立ちます。

十字架によって神の愛と義の矛盾が解決されたのです。

人間に残されているのは

「十字架によって自分の罪は赦されているのだ」

とキリストのわざを信じて生きていくことです。

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さて、最初の中国の商人はなぜ矛と盾を売り場に同時に置いていたのでしょう?

もし矛だけにしておいたら「どんな盾も突き通す矛だ!」と強弁して売り抜くことができたでしょう。

盾も同様です。

少なくともお客様から突っ込まれて答えられなくなるという事態にはならなかったはずです。

なぜ両方置いていたのか?

そうなのです。

彼は両方売りたかったのです。

矛盾の背後には必ずその理由があります。

神と人間を同じにしてはいけませんが、神は義と愛の矛盾をキリストの十字架で見事に両立させる道を作られました。

神の中にやましいことは一切ないことを証明し、義の正しい神が正々堂々と人間を愛することを神は強くお望みだったのです。

ですから、私たちがキリストの十字架による罪の赦しを信じることは神の御心です。

神はそうなってほしいと願っておられるのです。

その神の期待を心に受ける今日一日として参りましょう。

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2018.06.27

今日のみ言葉【No.1787】(2018年 6月27日)「 神の祝福を受けるための訓練『続ける』(2)」

「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」
(サムエル記上16:7 )

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日本の卓球選手が中国に勝つくらい強くなりました。

見ていると、きれいなフォームで決まる力強いスマッシュばかりではありません。

大半は体勢を崩され、不十分ながら返す「つなぎ」です。

ここを無理して完全な打ち方をしようとするとミスを招いて自滅します。

しかし、丁寧につなぎ、強打して決めてやろうという思いを抑えて辛抱していると、やがてフワッと浮いたチャンスボールがやってきます。

かっこ悪い打ち方ながら、しのぐことを覚えた人が現実の勝利者となります。

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継続する時も同じです。

いつでも完全なやり方で、教科書通り、教えられた通りのやり方を続けようとすると、続くものもの続きません。

聖書通読やディボーションを断念せざるを得なかった人に多いパターンです。

継続とはかっこ悪いことなのです。

綺麗にやろうとすると続けられません。

人間は不完全だからです。

調子の良い時もあり、悪い時もあります。

聖書を熟読できる時もあり、1行読むだけでもやっとの時があります。

「アップ↑ダウン↓」のダウンの時は、百点満点を目指して机にかじりつくのをやめ、自分の答案を書いてさっさと提出するのです。

おそらく平均点以下、赤点落第の内容でしょう。

なぜなら、

「形だけで中身がない」

「うわべは整えられたかもしれないが心が伴っていない」

からです。

その評価は甘んじて受けましょう。

しかし、

「やめることはせず、形だけでも出すことができた」

と自分に言い聞かせ、自分を励まし、自分へのダメージを最小限にして、明日の活力を確保する方向へと自分を向かわせるのです。

長く継続できた仕事には、間にそのような「つなぎ」の個所がいくつもあります。

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かっこいい自分だけを自分とせず、かっこ悪い自分をも受け入れること。

それはイエス・キリストが十字架で私たちの罪のために死に、私たちの全てを受け入れてくださったことが土台となります。

キリストが受け入れてくださったから、私もこの不十分な自分を受け入れ、不十分な私として生きていく。

これが継続していくための力となるなのです。

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神は心を見られる御方ですから、あなたの続けようとする意志を見ておられます。

結果は神にゆだね、その神と共に今日も歩みを続けて参りましょう。

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2018.06.26

今日のみ言葉【No.1786】(2018年 6月26日)「 安息日を守る」

安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
(マルコ2:27)

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今年から東京で生活を始めた孫へ、山形のおじいちゃんおばあちゃんが旬のさくらんぼを送りました。

早速SNSで「さくらんぼパーティー」のご招待。

集まった友人たちは、

「ちょっと待って、今洗ってるから」

の声にワクワクし、きれいな小皿に取り分けられた数粒のさくらんぼを想像していました。

ところが、出てきたのは、ざるに山盛りのさくらんぼ。

「何、これ〜!」

と驚きの声が上がると、そのお孫さんは

「だって、地元ではこういうのでしか食べたことないもん。他の食べ方知らない」

と涼しい顔。

これには友人たちも絶句。

「山形って、そんな贅沢してるところなのか…」

そうなのです。祝福にあふれた生活とは、それが当たり前の生活なのです。

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神は人間に対して、7日に1回休みなさいと命じておられます。

聖書はこの日を「安息日」と呼び、

「主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」
(出エジプト記20:11)

と、その理由も記しています。

安息日を守り、7日に1回の休みを取るライフサイクルは神が定められたものです。

しかし、その通りに生きれば、売上倍増、常に勝利…、などと単純には言えません。

経営なら、6日間営業より7日間営業の方が売上が多いのは当然です。

運動選手なら、6日練習する人より、休み返上で1日多く練習する人のほうが早く上達するでしょう。

短期的に見ると、現実と聖書は逆です。

ですから、人は働くことによって幸いを得ようとします。

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聖書が私たちに勧める生活とは、あなたを創造し、あなたのために最高の計画を持っておられる神と共に生きる生活です。

6日間の労働をし、7日目に安息を取り、日曜日の礼拝を守る生活。

それは、私たちが神と共に働きながら、日々神を賛美する生活となります。

これは世の終わりに

「昼も夜もその聖所で神に仕えている」
(黙示録7:15)

という形で完全に実現することになっていますが、現在はそれまでのひな型になっています。

この生活を、「人生」という長いくくりの中で続けていく時、私たちはこの世の価値観という縛りから解放され、当たり前の生活の中に驚くほどの神の祝福を見出して生きるようになるのです。

先ほどのお孫さんが、当たり前だと思って食べていたさくらんぼ生活が、実は途方もない贅沢な生活だったと気づくようなものです。

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休息を取らない生活は、疲労が体も心も蝕みます。

目はこの世の利益だけを追い求める目となり、心はただこの世のことだけに使われ、永遠を思う思いがいつしかなくなっていきます。

神の安息を守り、神の祝福を得る生活を送られますように…。

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