2018.11.09

今日のみ言葉【No.1877】(2018年11月 9日)「 十二弟子の派遣(1)」

また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、
(マルコ6:7)

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社会を作る最小構成単位は夫婦です。

そこから家族、地域の共同体、国家という具合に広がっていきますが、基本は二人というペアです。

イエス様が弟子たちを二人組にして世に遣わされたのには深い意味が込められています。

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キリスト教の伝道は儲けのためにやるのではありません。

神から受けた使命感で自発的に行うものです。

ところが、この使命感は案外もろく、崩れやすいのです。

キリストの福音を伝え、人々を救いに導く良いことをしているはずなのに、伝道をすると拒否されることのほうが多いからです。

もし、たった一人で知らない地に遣わされ、語れども語れども誰も信ぜず、かえって迫害されたとしたらどうでしょう?

その人の心が崩れたなら、伝道はそれで終わりです。

しかしイエス様は、

「また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして」
(マルコ6:7)

とあるように、ペアで伝道に遣わしました。

二人なら、一方が心弱り、神を見上げる力が無くなっても、他の一方がその人を助け励まし、やがて元気を取り戻して再びイエス・キリストの福音を語る力が与えられます。

イエス様は人間の心をよく理解し、深い配慮を持って十二弟子をふたり組にして町々村々へと遣わされたのです。

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アメリカ人の女性宣教師二人が英語を通しての伝道活動に来てくれたことがあります。

A先生が片言の日本語で

「コンドノニチヨウビ、キョウカイニキマセンカ?」

と英語クラスの生徒さんを教会の礼拝にお誘いすると、さすがに英会話を習っているだけあり、

「Thank you(サンキュー)」

という生徒さんからのお返事。

先生はとても喜んでいましたが、日曜日、待てど暮らせどその生徒さんは来ません。

彼女はがっかりしてしまいました。

アメリカでの「Thank you」は「ありがとう。そうします」という同意の意味なのです。

しかし、日本人の言う「ありがとう」には「お気持ちはありがとう。でも行けないかもしれないの。そこら辺、察してね」と暗にお断りの雰囲気を醸し出して言っていることがあります。

「No(ノー)」と言ってしまえば人間関係を傷つけるかもしれないので、それは維持しつつ自分の立場を守る文化的テクニックなのです。

伝道をすると、受け入れてくれる人もいますが、はっきりと断られる場合もありますし、やんわりと避けられることもあります。

A先生はカルチャーショックと共に「あんなにニコニコしているのに、イエス様のことを持ち出すと拒否される」という二重のショックを受けて少し落ち込んでしまいました。

すると一緒にいるB先生が彼女を慰め励ましてくれました。

また逆の場合もあり、A先生がB先生の失意の時に支えとなったこともありました。

これがペアの強みです。

お二人は最初の契約を延長し、長く日本の伝道に携わって下さいました。

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ご夫婦、あるいは信仰の友と共に、祈り合い、励まし合う生活を持って参りましょう。

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※御言葉メールのスケジュールは、
 ・月曜と木曜…キリスト教入門講座
 ・火曜と金曜…マルコ福音書講解説教
 ・水曜と土曜…慰めと励ましの聖句シリーズ
となっております。

2018.11.08

今日のみ言葉【No.1876】(2018年11月 8日)「 教会(3)」

全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
(マルコ16:15)

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神に呼び集められた人々がなすべき第2番目の使命は宣教です。

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」
(マルコ16:15)

では洗礼を受けたらすぐに家庭も仕事も放り投げて、街頭に立ち、「イエスを信ぜよ!」と選挙の候補者のように声を張り上げて説教しなければならないのでしょうか?

そうしたい人もいらっしゃるでしょうが、大部分の人にとってそれは無理です。

そして、自分の賜物と違うことをやらされれば、祝福に満ちるはずのクリスチャン生活は苦しみとなります。

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さて、マタイによる福音書の最終章の最後に大宣教命令があるではないかという人もいらっしゃるでしょう。

「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」
(マタイ28:19-20)

この箇所を正しく理解するためには、語られた状況を読み取らなければなりません。

ここではイエス様と、ユダを除く11人の弟子たちだけがいます。

つまり、イエス様がこのような命令を下されたのは、たった11人の弟子たちに対してだということ。

群衆や一般信徒に対してではありません。

あくまでもご自分が選んだ少数の「弟子」と言われる人たちに対してだけです。

そしてさらに、ここでの中心は「弟子とせよ」ということです。

ギリシャ語文法の細かい点になりますが、動詞はこの1個だけで、「行って」「バプテスマを施し」「教えよ」は分詞です。

ですから、

「行くことによって、洗礼を授けることによって、教えることによって、すべての人々をキリストの弟子としなさい」

というのがより正確な意味です。

こうなると、宣教というより弟子養成という意味合いが濃くなります。

イエス様と同じ愛の心を持った人となること。

その愛を生活の中で実践する人。

それがキリストの弟子です。

教会に集うクリスチャンの使命とは、それぞれの日常生活の中で「小さなキリスト」として愛の行いを為し、そのことを通して

「神様とは、キリスト様とはこういうお方なのか」

と周りの人々がキリストと出会うように生きることです。

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非の打ち所のない立派な生活だけでなく、日常のありふれた出来事の中で生きた信仰が神を伝えるお話です。

ご主人が長年の勤めを終え、お子さんも独立したので、老年に入ったご夫婦が犬をペットとして飼いました。

クリスチャンの奥様は犬にも感謝のお祈りをして食べさせます。

ドッグフードを前に置き、ワンちゃんの両前足を手に持ちます。

そして、「感謝、感謝」と言いながら、左足を2回、右足を2回上下に振って、「アーメン」と言ったら食べて良いのです。

犬の方でも

「こうやってお祈りしてからでないと食べてはいけないのだ」

と学習したようです。

ある時ご主人が、

「今日は俺が食べさすよ」

と言って、ドッグフードのお皿を置き、

「はい、握手」

と犬に言い、その足を上下に振りました。

ご主人にはお祈りでなく握手と見えたのでしょう。

ところが、犬は食べようとしません。

「あれ、今日は食欲ないんじゃないか」

とご主人が不思議そうに言うそばで、ワンちゃんの目は奥様の方を必死に見ています。

食べたいのに食べられないのです。

握手ではダメなのです。お祈りしなければ食べられないのです。

奥様はすぐに犬のもとに行き、いつものように

「感謝、感謝。アーメン」

と食前の感謝のお祈りをすると、犬は猛然と食べ始めました。

後でご主人が

「犬もお祈りがわかるんだなあ」

と言っておられたそうです。

キリストを信じる弟子として生きる時、このようなほんの小さな出来事を通し、福音が宣べ伝えられていくのです。

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神を愛する愛をもって今日一日の日常を送って参りましょう。

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2018.11.07

今日のみ言葉【No.1875】(2018年11月 7日)「 死の陰の谷を歩むとも」

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。
(詩篇23:4)

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真っ暗闇の中で歩いたり、食事をしたり、助けあって作業をするイベントがあります。

参加者に聞くと、視覚が使えなくなるので、他の聴覚・触覚・嗅覚が鋭敏になり、話す声の響きで部屋の大きさまでわかるようになるそうです。

見えない中にいる時、私たちの内の眠っている力が目を覚ますのです。

それが

「あなたがわたしと共におられるからです」

という感覚です。

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詩篇第23篇は多くの人に愛され、よく読まれている聖書箇所の一つです。

「死の陰の谷」の原義は「暗闇の谷」です。

真っ暗で先が見えない人生を歩んでいても、わざわいを恐れないでいられるのは、

「あなたがわたしと共におられる」
(詩篇23:4)

からです。

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ただし、この表現は聖書では多く出ておらず、むしろ珍しいとも言える箇所です。

通常は

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる」
(イザヤ41:10)

のように、神の方から人への語りかけとして「共にいる」という宣言がなされます。

しかしここでは、

「あなたがわたしと共におられるからです」
(詩篇23:4)

と人の方から神へ向かって語っています。

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死の陰の谷を歩む時は暗闇の中ですから、神の臨在が感じられないのです。

いつも共にいて下さるはずの神。祈ればその祈りに答えて下さる神様。

その神の存在が全く感じられないまま、とりあえずぶつからないように、つまずかないように気をつけてソロリソロリと歩んでいるのが死の陰の谷です。

そこで頼りになるのは過去の神との体験です。

「あの時の祈りは、私が祈った通りにはならなかったけれど、別の形でもっと良い応えられ方をした」

「あの時も助けられた」

これらの記憶は、ほんの小さな光かもしれません。

しかし、「わたしはあなたと共にいる」という神の声が聞こえない状況では、「あなたがわたしと共におられる」と、今まで自分を照らし出してくれた光を取り出し、自分を励まして歩むのです。

そこから先は、人生の暗闇に取り囲まれても、わざわいを恐れないで道を進んで行くことができます。

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あなたの中の神の光を大切にし、勇気を持って闇の中をも歩んで参りましょう。

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2018.11.06

今日のみ言葉【No.1874】(2018年11月 6日)「 イエスの郷里の人々(2)」

イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。
(マルコ6:4)

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私が「あの聖書解釈は一番間違っていたなあ」と思うのは、

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
(使徒16:31)

という箇所です。

私は自分がクリスチャンになったら家族は次々と救われるものだと思っていました。

確かに家族の一人が救われ、その人から全家族が救いにあずかった例を聞くことがあります。

ところが、私は牧師で一般レベル以上に聖書知識があり、伝道の訓練を受けているはずなのに、そうはなりませんでした。

「あれ!御言葉はウソ?」

いえいえ、使徒16:31の意味は、

「あなたがイエス・キリストを信じるだけで救われるように、それと同じ原理で、あなたの家族も十字架による罪の赦しを信じるだけで救われます」

ということであって、

「家族の一人が救われれば、他の家族はその人の意志とは関係なく自動的に救われる」

ということではありません。

その人の自由意志によって信じるか信じないかの選択があり、その決断によってクリスチャンになるのです。

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それにしても、家族に伝道することは難しいです。

これは負け惜しみや言い訳で言っているのではありません。

イエス様ご自身も

「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」
(マルコ6:4)

と言っておられるように、郷里・親族・家族から尊敬されることは期待してはならないのです。

なぜなら、身近な人々は血肉の関係からしかあなたを見ることができず、霊的に新生したあなたを見ることがないからです。

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「だから、何をやっても無理なんだからあきらめたらいい」

というわけではありません。

私たち人間の計画と神の御計画は違うからです。

「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」
(イザヤ55:9)

私たちがなすべきことは、目の前の成果に左右されず、忠実に御言葉に従って生きることです。

「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」
(第2テモテ4:2)

あなたが自分の人生を選択して生きるように、家族も同じく自分の思うところの道を選んでいます。

私たちは救いのチャンスを与えることに専心すべきです。

熱心に伝道し、救いを得るように勧めますが、結果は神に任せるのです。

「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」
(伝道の書11:1)

そのようにしていると、思いもよらない祝福を神は用意されていたのだと後に知ることになるのです。

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私の場合は、

「日陰のクリスチャン」

との出会いが多数用意されていました。

つまり、

「イエス様を信じたら家族みんなが救われました。ハレルヤ!」

と日なたを堂々と歩けるクリスチャンではなく、

「あれだけ伝道したのに誰も救われなかった」

という方々です。

「全然証しが立っていなくて…」

「私の力不足で家族の誰も教会に来ていません」

とご自分を責め、そのことを大っぴらに言ったら牧師先生の迷惑になると思って語ることもできず、ただただ他人様の輝かしい証しを聞いているしかないクリスチャンです。

そんなことなど露ほども知らぬ私がその人の前で大っぴらに

「いやあ、家族に一生懸命福音を伝えたんでしたが、ダメでした」

と言うものですから、

「先生もですか?」

となり、ひとしきり苦労話、ダメ話、もう取り返しがつかなくなった話等をする時間を経て、

「先生、お話を聞いて今日は楽になりました。この私でもいいんですね」

と安心した顔を見せられ、お帰りになられます。

私の存在が日陰のクリスチャンの皆さんにとって生きる力となるようなのです。

そして不思議なことに、全員その後、伝道をやめるどころか、安心してクリスチャン生活を続け、自分の身の丈に合った福音の伝え方をしておられます。

日本の現況では、伝道に成功している方が少数派で、失敗しうまく行っていない人の方が圧倒的多数派です。

私たちにはわからない神の御計画が進行しているのです。

私たちに出来ることは、水の上にパンを投げることです。

それが後になって意外なほどの祝福となって帰ってくる日が必ずやって来るからです。

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あなたのありのままで喜んで生きていること。

それが神を証しする最大の姿です。

水の上にパンを投げるひとときがある今日でありますように…。

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2018.11.05

今日のみ言葉【No.1873】(2018年11月 5日)「 教会(2)」

さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。
(マルコ3:13)

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礼拝中、子供たちは隣の部屋にいて、私の家内が相手をしています。

「てっちゃん」という男の子がAIスピーカーを見つけて、

「アレクサ、ひまだ〜」

と言うと、その音声をキャッチしたAIスピーカーが反応しました。

「遊びましょう。じゃんけんして、と言ってみてください」

この人格を持っているかのような反応に、てっちゃんの目は輝きました。

家内も周りの子も

「てっちゃん、すごい!」

「こんなこともできるんだ!」

とほめてくれます。

彼は「エヘヘ」と得意そうに笑います。

聖句を暗唱する時間はなくても、この愛され体験をするために子供たちは教会に呼び集められているのではないかと私は思います。

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教会とは神に呼び集められた者の群れです。

その原型がイエス様によって呼び集められた十二弟子です。

「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた」
(マルコ3:13)

彼らが集められたのは何のためだったのでしょう?

聖書はこう記しています。

「そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」
(マルコ3:14-15)

教会の使命がこの3点にあります。

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第1番目は「彼らを自分のそばに置くため」です。

自分のそばに置くとは、弟子たちに実地で見聞させるためです。

理論理屈や知識を頭に入れ、それで「わかった」として終わりにするのではありません。

頭で理解することも必要ですが、自分の目で見、自分の耳で聞き、手で触り、足を運び、体験を通して「わかった」とするのです。

ではイエス様は彼らに何をわからせようとしたのでしょう?

それは、イエス様がこの世に来られた目的は何か、ということです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」
(ヨハネ3:16)

教会はこの神の愛を伝え、イエス・キリストというお方が何のために地上に来られたのかを教えることが使命となります。

ですから、教会に来て、礼拝や様々な集会で聖書を学ぶことによりキリストを正しく理解することが一番オーソドックスな教会へ来る目的となります。

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さて、子供時代、親に連れられて教会に来ていた人たちの多くは教会を離れていきます。

教会の礼拝よりもこの世の生活のほうが魅力的であり、自分を伸ばす可能性を感じるからです。

その中で、やがて問題に突き当たり、ふと幼い頃過ごした教会を大人になってから訪ねてくれる人たちがいらっしゃいます。

一様に言われることは、

「懐かしい〜!」

「変わってない!」

という言葉です。

自分が遊んだおもちゃがまだ残っているのを見て、思わず手に取り、うっとりと眺めている人もいます。

そこで思い起こすのは、自分は愛されていたという記憶です。

そこに神様がいて、私は愛されていたという暖かい記憶がよみがえってきます。

彼ら彼女らにとって、その愛され体験が動かしようのない確かな土台となり、行き詰まりからのV字回復へとつながっていくのです。

教会に愛の記憶があること。

これこそが最も残すべき、伝えるべきものなのだと私はしみじみと思わせられています。

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イエス・キリストの愛で愛されている自分を確認する今日として参りましょう。

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